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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第2節:歴史人物・旧跡

元杢網

〜新春特別編〜 博物誌だより66

元杢網筆雲竜

 今年の干支(えと)・辰(たつ)にちなんだ文化財として町指定文化財・元杢網筆雲竜をご紹介します。
 この雲竜は八方睨(にら)みの竜ともいわれ、杉山の薬師堂の天井に描かれた水墨画で、三枚の杉板を張り合わせた縦約三・五メートル、横約五・五メートルの大きなものです。
 作者の落栗庵元杢網は江戸時代後期の享保(きょうほう)九年(一七二四)嵐山町の杉山の金子家に生まれ、本名は金子喜三郎といいました。家督を弟の喜四郎に譲り江戸京橋北紺屋町(きたこうやちょう)で湯屋を営みましたが、当時は狂歌師として大変活躍した有名人でした。この杢網はまた絵画もよくし、英一蝶(はなぶさいっちょう)の孫弟子、高崇谷(こうすうこく)に師事して狩野(かのう)派の流れを汲む英派を学び、画号は高崇松(こうすうしょう)と称していました。
 天井に描かれたのは一頭の竜です。竜は神霊視される霊獣として瑞兆(ずいちょう)であったり、権力の象徴であったり様々な意味がありますが、寺院内で画や彫刻で扱われる場合の竜は、仏法の守護神として、あるいは仏の持つ超自然的な力の象徴としての竜であることが多く、単なる霊獣ではなく「竜王」「竜神」として扱われます。特に竜は請雨祈願(あまごいきがん)の神(水神=農業神)として尊崇されることから、杉山の薬師堂は本尊の薬師如来は除病、雲竜は豊作という当時の人々の切実な願いが込められ建てられたものと思われます。
 雲竜の水墨画は近年絵が見えにくくなったため、平成九年度に天井から取り外し八ヶ月間かけて保存処理を行いました。この時の調査によって、この雲竜は当時の地元の人々が杢網に天井画を描いてもらうため天井に黄白色の下地(とのこ)を直接塗って待っていたもののすぐには来てもらえず、しばらく経って下地が剥げて薄くなったころに杢網が杉山に帰郷し、天井から板を降ろして描かれていること。そして描かれた雲竜も、堂の大きさ、天井の高さなどを充分計算し、特に本尊と雲竜との位置関係は堂の中心は神仏の通り道としてあけておくため竜の頭部を僅かにこの中心からずらしているなど即興的に描かれたものではなく、薬師堂の構造を熟知した上で周到に準備された後に描かれた極めて品格の高い作品で、丁寧に薄墨で下絵を描いた後に本描きされていることなどが解りました。下書きを基に描かれているものの、その筆使いは非常に力強く、竜は立体的に描かれ、手足・尻尾・髭が四角に伸びながらわずかに軸をずらしているため墨絵全体が角張らず、幅広さを感じさせる優品であることは杢網が優れた画人であったことを再認識させるものでした。
 江戸時代には学者・芸術家・経済人・政治家などの資質を兼ねあわせている人物が多く、いずれの分野でも一流という人が珍しくありませんでしたが、杢網も狂歌師としてだけでなく、画家としても非常に評価の高い人物で、この雲竜からも教養の深さ、感覚の鋭さなどがうかがわれます。
 作者の杢網は文化八年(一八一一)に八八歳で死去し、杉山の金子家の墓地に「あな涼し浮世のあかをぬぎすてて西に行く身はもとのもくあみ」と辞世(じせい)が刻まれた夫妻の墓(県指定旧跡)があります。また、金子家には町指定文化財として杢網の自画像や位牌など杢網と妻の智恵内子(ちえのないし)の関連資料が大切に保管されています。
 辰年にちなみ、杉山薬師堂にお参りして雲竜を拝観しながら郷土の偉大な文人に思いをはせてはいかがでしょうか。
 「又ひとつ年はよるとも玉手箱あけて嬉しき今朝の初春」杢網
(文・村上伸二) 

嵐山町広報『嵐山』65号「〜新春特別編〜 博物誌だより」 2000年(平成12)1月1日

杉山薬師堂の「にらみ竜」|写真
杉山薬師堂の「にらみ竜」(雲竜)

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