第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
元杢網
町の今昔
狂歌師元の杢網のこと
嵐山町郷土史片々(四)長島 喜平
天正軍記という古い記録に、大和郡山城主筒井順昭が病死して、嗣子の順慶が幼少だったので、遺言により順昭と声のよく似た木阿弥(もくあみ)という盲人を、薄暗い寝所において、順昭の病気と見せかけ、順慶が成長ののち、木阿弥は元の一盲人の身になったという故事より、元の木阿弥とは、一度は素性に似つかぬほどの栄革の身となった者が、もとの素寒貧になってしまうことで、元通り無一物になることをさしていう。
『嵐山町報道』190号「町の今昔」 1968年(昭和43)12月5日
もとより狂歌師や川柳師は、諧謔なペンネーム(作名)をつけたもので、元杢網(もとのもくあみ)も、またその例にもれない。
彼は江戸末期(天明〜文化)の狂歌師にて、杉山の金子氏の出である。
文学辞典などによると、本名は渡辺正雄とあるが、郷里では金子喜三郎といい、杉山の現金子長吉氏の三代前であるという。
家号は大野屋と称し、別号落栗庵、画号は嵩松とも言った。
享保九年(1724)に生れ、文化八年六月二十八日(1811)八八才にて歿した。
江戸京橋北紺屋町の湯屋の主人で、画を高嵩谷(こうすうこく)に学び、杉山の薬師堂等にその絵を残した。
天明の頃、四方赤良(よものあから)等と狂歌をはじめ、狂歌堂真顔、蜀山人、宿屋飯盛等と共に有名を馳せ、その道の大家となる。
門人には裏堀蟹子丸、馬場金埒などをはじめ多くいた。
寛政三年(1791)、発心して藤沢遊行上人の弟子となり、珠阿弥と号し、京都・摂津に遊歴し、大和吉野に仮住いしたこともあった。
老後 芝久保神谷町に転居し、更に向島水神の森に閑居したこともある。
とにかく三昧の生活をすごせたのは、湯屋を経営し経済的にはめぐまれていたのであろう。
妻は本名すめといい、智恵内子(ちえのないし)と号し、知恵のないこであるというような意味があるらしい。共に狂歌をなす。
墓は金子家の近くの墓地にあり、
墓石の表面に
落栗庵元黙阿弥
芳春院円誉妙栄大師(妻)
とあり、墓石の右側に、
「あな涼し浮世のあかをぬぎすてて、西へ行く身は元のもくあみ」
という辞世が刻んである。
元杢網の狂歌には、
「筒いつゝいつも風あり原や、はひにけらしなちと見ざるまに」
なを、徳和歌後方載集の中に、
「又ひとつ年はよるとも玉手箱、あけてうれしき今朝のはつ春」
「きさらぎも杉菜まじりの菜の花の、さきてはくはぬ口なしの花」
などと数歌ある。
また同じ狂歌集に、智恵内子は
「通りますと岩戸の関のこなたより、春へふみ出すけさの日の足」
「さほ姫の霞の衣ぬひたてに かゝるしつけのをがわ町哉」
と、これまた数歌ある。
天明新鐫五十人一首吾妻曲狂歌文庫の補遺として古今狂袋がありその中に、もとの木網と智恵内子がのっている。
もとの木網は、また元黙網とも杢網ともかき、新古今狂歌集、狂歌師細見、浜のきさご(まさごではない)などに多くの狂歌や狂歌集を残し、狂歌によると国学の素養が、非常に深かったようである。
墓はまた、東京深川万年町正覚寺にあり、心性院琢誉珠阿弥陀仏の法名であり、実はこゝへ葬られたという。 (埼玉県郷土文化会理事)