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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第2節:歴史人物・旧跡

鎌形八幡神社

町の今昔

嵐山町の円空仏

=役の行者(えんのぎょうじゃ)の三体仏=

町文化財保護委員長 長島 喜平 

 「円空仏ってなんですか」「役の行者(えんのぎょうじゃ)とは、前鬼・後鬼とは、なんですか」とたびたび聞かれる。
 それは、九月八日と九日の新聞*1に、鎌形の簾藤甲子治さん宅にある円空仏が報道されたので、町の人々から尋ねられる。
 この仏像は三体が一組になり、役の行者の脇侍として、前鬼・後鬼を従えている。

 まず、円空とは?

 円空は何であるか、いつ、どこで生まれたのか、はっきりしない。
 元和か寛永の頃(1620年〜1630年頃)の江戸時代初期に、美濃国中島郡中村(今の岐阜県羽島市)に生まれたという。
 二三歳で出家し、法隆寺や園城寺に学び、尾張国高田寺で密教をおさめ、修験道を行うじ、大峰山や白山などを修行して歩いた。
 円空は仏像を十二万体刻むことを発願し、中部・関東・東北へと遍歴の旅をしながら、仏像を刻んで歩いた。この円空が刻んだ仏像を円空仏という。
 円空仏の特徴は、一本の丸太の木を二つ割りが、四つ割りにしてナタやノミで、そのままの材に切り込みを入れる方法で刻み、仏像の鼻や胸・合掌・台座などは、素木の突起部などを、うまく利用して刻んだ。
 刻んだ仏像の背中(後側)は、割ったままになっているのが多いまことに素朴な仏像彫刻である。
 この円空が刻んだ、役の行者の三体像が、簾藤さん宅にある。
 それでは、役の行者とは、どんな人なのか。
 役の行者は、役の小角(おずぬ)といい、舒明天皇六年(634)に生まれたというが、はっきりしない。役の行者については、伝説的なことが、まことに多い。
 ただ続日本紀(しょくにほんぎ)によれば、大和の葛城山にこもって修行した呪術家であるという。役の行者が死んで約千年も後の江戸時代に、修験道がおおいに発展した頃、修験の始祖としてあがめられ、寛政十一年(1799)には、神変大菩薩という尊号を賜っている。
 山にこもり孔雀明王の呪法を行じ、鬼神を駆使したといい、更に多くの仏典を読み通じ、生駒山・熊野・大峰山・金峰山などの山野を歩き、神験をあらわしたという。
 こうして、役の行者が呪術に通じたので妬(ねた)まれ、ざん言により罪になったが、空中を飛びまわって捕らえることが出来なかったという。
 そこで、役の行者の母を捕らえて行者をおびきだし自首させ、伊豆の大島に流したという。
 しかし夜になると富士山まで飛んでいって修行したり、母のもとに行って孝養をつくしたという。
 こうしたことは、あまりに役の行者が修行してこの道をきわめたことが、伝説となったのであろう。
 役の行者の姿は、多くの場合、頭巾をかむり短い法衣を着、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に経巻を持ち、また腰をおろした形の像や絵が多い。
 なお、前鬼・後鬼を従えているが、前鬼は行者の左側にいて斧(おの)を持ち、後鬼は右にいて徳利を持っているのが普通であるが、この簾藤さん宅のものは、後鬼は何も持っていない。
 この二つの鬼は、もと生駒山の麓に住んでいた悪い夫婦鬼であったが、役の行者が捕らえて大峰山において使ったというが、どちらも改心して善い鬼になったという。
 円空は多くの仏像や、いろいろな像を刻んだ。
 埼玉県下では、春日部市・大宮市を中心に百三十二体、簾藤さん宅の三体を合わせて、百三十五体発見されているが、まだまだ発見されるかも知れない。
 円空仏という円空の刻んだ像は観音・薬師・阿弥陀・不動明王などが多く、役の行者もいくつかあるが、前鬼・後鬼を従えて三体そろったものは、恐らく全国でも簾藤さん宅のものだけだろう。
 それでは、なぜ簾藤さん宅にこの円空仏があるかというと、鎌形には一院二坊の修験(山伏)の家があった。
 一院とは、大行院の斎藤家、二坊とは桜井坊の簾藤家と石橋坊の矢野家があって、この三家にて鎌形八幡宮の別当をしていた。この三家は非常に古い家柄で、江戸時代以前にさかのぼると思われる。
 明治以前は、神官が神社の祭りをしていたとは限らない。修験者が神社を支配して、のりとではなく般若心経(はんにゃしんぎょう)をあげていた神社も多くあった。まさに神と仏がいっしょの神仏混淆(こんこう)の時代であった。
 この大行院と二坊は、今の春日部市、当時幸手領小淵村の不動院(現在はない)の霞下(配下)であった。(霞とはなわばりと考えたほうがよい。)
 この不動院は修験寺であって、京都聖護院直々の配下で、大先達といい、大行院はその下で準年行事職にあって、連絡などで度々不動院まで出向き、また桜井坊や石橋坊は、大行院の代りとして、小淵の不動院に出向いたことであろう。
 その時、桜井坊の当時の主が、手に入れて帰ったものであろう。
 新聞には、ひょっとすると桜井坊の当時の主が、円空に直接会って戴いてきたのかも知れないとあったが、そういう可能性は多分にあると思う。
 円空仏は相当発見されているがこの三体仏のようなものは、全国でも現在のところ類例がないと思うので、ぜひとも嵐山町の文化財に指定したいものである。

『嵐山町報道』310号 1982年(昭和57)10月30日

役の行者三体仏|写真
簾藤甲子治氏宅の役の行者三体仏(円空作)

*1:円空仏の発見は当時、以下の見出しで新聞により紹介された。

嵐山に円空仏三体 町文化財級の価値
『毎日新聞』1982年(昭和57)9月8日

おや珍しい円空仏 前鬼と後鬼お供 役行者
      嵐山の農家から発見

『読売新聞』1982年(昭和57)9月8日

珍しい三体の円空仏 嵐山町の農家で発見
      前鬼と後鬼を従えた役行者 全国でもまれと評価

『埼玉新聞』1982年(昭和57)9月9日

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