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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第2節:歴史人物・旧跡

鎌形八幡神社

町の今昔

新発見の十三仏板碑と桜井坊

              —— 嵐山町郷土史片々(五)—— 長島 喜平 

〔はじめに〕前助役安藤先生より郷土史のことにつき、『報道』に書くよう依頼され、先年中に四回ばかり書いたが、病院へ入院してからそのままになり、最近簾藤惣次郎先生にお願いして、書いていただいた。続いて私も、ここにまた何回か書いてみましょう。
〔桜井坊〕昨年鎌形の簾藤甲子治さんから、前の畑から板碑が発見されたので見てくれと頼まれた。
 因みに簾藤さんの家は、修験道の家柄で桜井坊といい、ほかに大行院と石橋坊があって、この一院二坊が、鎌形八幡神社の祭を司り徳川幕府より御朱印二十石をうけ大行院十四石、桜井坊と石橋坊が各三石宛分配を受けていた。
 この一院二坊のうち、現在鎌形に存続するのは、簾藤さんの家だけで、多くの古文書を蔵していたというが、戦後焼却してしまったとのこと、それでも、漢籍五箱と古文書箱が残り、現在私が、鎌形神社の文書と共に読み、近々印刷の運びとなっている。
〔桜井坊の板碑〕桜井坊の板碑には、正応六年(1293)、今より約七百年前のものがあり、それには、大峰八大金剛童子とあり、大峰山は、大和吉野の奧で、修験即ち山伏の本山道場であった。
 この板碑により、桜井坊は既に鎌倉時代末期に存在していたと考えられる。
 徳川時代には、この一院二坊は幸手大先達不動院の霞下(配下)となり、京都聖護院末であった。
 板碑は、このほか正安三年(1301)の三尊板碑があり、石橋坊跡には、弘長二年(1262)の板碑があり、現在発見のものでは、これが嵐山町最古である。
〔新発見の十三仏板碑〕十三仏板碑は、県下に数えるほどしかない。
 簾藤さんの畑から掘りだされた板碑は、高さ七六糎(センチ)、巾三四糎で、永正四年(1507)十月の紀年銘があり、室町期のものである。
 十三仏信仰は、鎌倉末期に始まり、室町時代には、板碑にも刻まれるようになった。
 写真でわかるように、円の中に梵字で夫々仏を刻み、蓮華台の上にのせ、横に三仏づつ四列に配し下部は破損し、四仏不明であるが配列から推測でき、次のようになる。

    大日 薬師 弥勒 不動

虚空蔵 阿閦 観音 地蔵 釈迦

    弥陀 勢至 普賢 文殊

 上部の一尊の虚空蔵は、子供のいたずらか、または、なにかの呪術(まじない)のため、虚空蔵に穴を開けたものか、はっきりしない。
〔結び〕ここでは字数の制限で十三仏板碑の紹介にとどめ、出来れば、この十三仏板碑や菅中の板碑、更に石橋坊の弘長の板碑を町で指定したいと考える。(埼玉県郷土文化会理事比企支部長)

『嵐山町報道』200号「町の今昔」1969年(昭和44)12月10日
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