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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第2節:歴史人物・旧跡

鎌形八幡神社

一、村社 鎌形八幡神社

東上線駅菅谷駅にて下車し杖を畠山の館趾に曵くものは南方に都幾川の清流を隔てゝ鬱蒼たる樹林の河涯に傑出せるを見るなるべし、之を鎌形八幡神社の境域となす。

当社は人皇五十代桓武天皇の朝田村将軍東夷征伐の勅命を奉じて下向の砌群を塩山々頂に屯め山河の景勝を愛でゝ此処に当社を勧請して武運の長久を祝祷せし処にして、其後源氏の主帥勢威を東国に振ひし頃に至りては武将の崇敬特に厚く中にも源為義の子先生義賢は当地大蔵の庄を伝領して其中央なる御所谷戸に本館を構へ当社の後方なる木曽殿の地に別墅(べっしょ)を置きて夫人山吹姫を居住せしめ、茲に其子義仲及び其孫義高も生れたりければ当社は其産土神にして当時掬(すく)みて産湯に供せしといふ、霊水今尚境内より流出して昔日の如し、下りて天正の末年徳川氏関東入国の時より累代の将軍家御朱印書を以て社領二十石を当社に寄進せられて崇敬を尽くされ以て明治の新政より大正の大御代に及び近在総郷の崇敬益(ますます)集まる処となれり、而して当社は境内頗る広く都幾川の清流に臨み四時の景色に富みて自から一公園の趣をなせるを以て、先づ畠山の館趾に眼界の眺を満たし歩を当社に進めて詣礼祈念し心身の清廉を誓ひ先生義賢の霊廟を大蔵の庄に拝して関東武士の典型を偲び、而して順路菅谷駅に戻らば方に一日間の清遊を試むるに足らん。

『発展の武州松山』1925年(大正14)発行、48頁〜49頁
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