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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第2節:歴史人物・旧跡

笛吹峠

地誌武蔵野話 笛吹峠 将軍沢村

将軍沢村の鳥瞰図
太平記、武蔵野合戦の章に「笛吹峠又竿吹峠(さほふきとうげ)」と書てうすひと訓(よみ)、上野信濃の界」とあるは記録者のあやまれるなり。此峠は 文字の通(とほり)ふえふき峠なり。今宿(いましゅく)といへる地(ところ)に西北にあたり将軍澤といふ地あり。此村中の峠をふえふき峠といふ。入間川村 より上野への通道(みちすじ)にて入間川村の四里西北にあたれり。新田左中将、多摩郡分敗河原(ぶばいがわら)の戦にやぶれて久米川村へ陣を引(ひき)ま た入間川へ陣を引(ひき)、其夜笛吹峠へ落(おち)しとあれば上信の界にあらず。上信の界は行程(みちのり)遙なる里数にて凡二十里もあるべし。其夜陣を 引とる事なかなかかなふべからず、入間川より笛吹嶺(とうげ)までは行程漸(やうやく)四里餘もあれば其夜陣を引とりし地(ところ)は将軍澤村の嶺(とう げ)に疑ひなき事分明なり。此村にすこしの澤あり、水西より東へながれ将軍権現の小祠の在(ある)所を過るゆへ将軍澤の名あり。昔時(むかし)田村将軍東 征の時、陣を暫くとどめ旌旗(はた)を立させられし処の塚を即将軍大権現と崇(まつり)しといふ。土人(ところのもの)は此祠を将軍様と稱す。此村いたり て僻地にして他国のものの往来(ゆきき)もなき所なれども大倉、菅谷其外上州への街道にして小荷駄の往来のみあるやうすなり。人の知ざる程の地(ところ) なるゆへ太平記の誤ももっともにあらんか。

齊藤鶴磯『武蔵野話』125頁 武蔵野話刊行会,1950年3月

江戸時代の地誌の古典『武蔵野話(むさしのばなし)』が発刊されたのは1815年(文化12)、著者は齊藤鶴磯(さいとうかっき) (1752-1828)である。齊藤の墓は、現在東京都豊島区巣鴨5-37-1、慈眼寺墓地にあり、東京都の旧跡に指定されている。東京都教育員会が 1993年(平成5)に建てた解説板には次のように書かれている。

 齊藤鶴磯墓(さいとうかっきはか)
江戸時代後期の儒学者。地誌研究家。宝暦二年(1752)水戸藩士の子として江戸に生まれた。通称宇八郎、諱(いみな)は敬夫、字は之休、鶴磯は号である。寛政八、九年(1796-1797)から文化十三年 (1816)頃までの約二十年間、江戸から離れて所沢に住み、鈴木牧之(すずきぼくし)(秋月庵)の『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』や赤松宗旦(あかまつ そうたん)(義和)の『利根川図誌』と並ぶ江戸時代の地誌『武蔵野話初編』を文化十二年(1815)に完成させた。翌年筆禍事件により所沢を去って江戸に 移った。続編は門人の校訂によって文政十年(1827)に刊行された。他の著作に『女孝教補注(おんなこうきょうほちゅう)『干支考(かんしこう)』『琢 玉斎漫筆(たくぎょくさいまんぴつ)』などがある。文化十一年(1828)2月7日七七歳で死去し、深川猿江町にあった慈眼寺に葬られたが、寺院の移転により改葬された。

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