第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
唱歌
菅谷唱歌(原崎助三郎作詞)
関東平野の中ぞらを 仰き看(み)つれば紫きの
雲の棚引(たなび)く武蔵のゝ 比企の郡(こおり)は押し並(な)めて
土地豊饒(ほうじょう)にみづ清よし きよき誉れは都木(とき)川の
永久(とは)に流るゝ菅谷むら 川みづ引いて田に畑に
米は稔(みの)りてむぎ秀(ひ)いづ 秀(ひで)たつ里に名も高き
秩父重忠しろの跡 昔しながらに今も猶(なお)
史蹟(しせき)名所のありありと 跡とふ人のしげければ
古往今来(こんらい)繁昌(はんじょう)し 搗(か)てて附近は穴かしこ
鬼神(きじん)の祠(ほこ)らのあら高よ おにゝ金棒しっかりと
立せ給へば諸ろ人(もろびと)は 神にすがりて幸福を
得んと祈(いの)りて己(おの)がじゝ 社頭に額(ぬか)づき参拝し
春夏秋冬(しゅんかしゅうとう)絶まなく 老若男女の詣できて
毎(い)つも賑(にぎ)はふ所なり 所(とこ)ろに布設の鉄道の
何といふても汽車の便 菅谷の駅へ集中し
澎湃(ほうはい)として人の海(う)み 思へば近き将来に
村は変じて町と化(な)り 町制実施も遠からじ
町制施行も遠からじ 菅谷村万々歳 菅谷村万々歳いその上ふるきを尋(た)づね新(あた)らしく
太郎丸・田幡丈*1家文書 No.5772
契(ちぎ)るが嬉し菅谷(すがや)むら人(びと)
*1:本来の表記は丈の右上に点
1955年(昭和30)に菅谷村と七郷村と合併して誕生した菅谷村。町制施行で嵐山町になったのは1967年(昭和42)です。これを記念して嵐山町町歌(木村倉之助作詞)、嵐山音頭(小久保佐一郎作詞)が制定されました。菅谷唱歌はいつ頃のものでしょう。ヒントは、菅谷唱歌の歌詞にあります。
毎つも賑はふ所なり 所ろに布設の鉄道の
何といふても汽車の便 菅谷の駅へ集中し
澎湃として人の海み 思へば近き将来に
村は変じて町と化り 町制実施も遠からじ
町制施行も遠からじ 菅谷村万々歳
東上線が小川町まで開通したのは1923年(大正12)12月。菅谷駅(すがやえき)は同年11月に開業し、1935年(昭和10)に武蔵嵐山駅(むさしらんざんえき)と改称し、現在に至っています。
米は稔りてむぎ秀いづ 秀たつ里に名も高き
秩父重忠しろの跡 昔しながらに今も猶
歌詞には「畠山重忠しろの跡」はありますが、名勝地「新長瀞」、「武蔵嵐山(むさしあらしやま)*1」、竹筋コンクリート製の「畠山重忠像」や「日本農士学校」はありません。
新しいモノが生まれればそれが直ちに歌詞に取り込まれるわけではありませんが、この歌が作られたのは、大正末から昭和一ケタの前半の頃ではないかと想像されます。
*1:現在の嵐山渓谷(らんざんけいこく)