第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光
武蔵嵐山(嵐山渓谷)
武蔵嵐山へ定期バス 観光道路も完成
東武鉄道では、駅─嵐山、東松山─嵐山に定期バスを運行することになり、四月七日、東京陸運局に免許申請を出し、近く許可、開通の見込みである。
運行時間割は、
駅発が、
午前 八時三〇分
〃 九時三〇分
〃 一一時〇〇分
の三回
午後 一時〇〇分
〃 二時〇〇分
〃 三時〇〇分
〃 四時三〇分
の四回
嵐山発は、
午前 七時三五分
〃 八時四五分
〃 九時四五分
一一時十五分
の四回
午後 一時一五分
〃 二時一五分
〃 四時一五分
の三回
料金は全線十円又、東松山─嵐山は午前が東松山七時、嵐山駅七時二五分、武蔵嵐山七時三五分。午後が、武蔵嵐山四時三五分、駅五時〇三分、東松山五時三〇分の、一回宛(ずつ)となっている。
この料金は四〇円。尚、千手堂の登山口から、山の入口までの村道、及びここから六角堂上の駐車場に至る観光道路七百米は、巾員を四米─五米にひろげ、改良工事が完成した。この工事は、地元、千手堂、遠山地区の地主、区民が、全面的協力と奉仕をして完成したものである。
『菅谷村報道』110号 1960年(昭和35)5月15日
嵐山駅定期バス
昨年から話題に上つていた嵐山駅から、嵐山六角堂までのバス運行は、この程、運輸省の許可が出て、十月から開始出来る情勢になつた。これについて東武では、村及び、一平荘の協力態勢如何により実施か否かに踏み切る腹をきめ、六月三十日、東上業務局の斉藤課長等が来村しこのことについて、村長と協議した。
『菅谷村報道』124号 1961年(昭和36)7月20日
尚一平荘の協力関係については、村長議長が庄田氏と面接して協議を進めている。
東武バス開通
かねて計画中の、武蔵嵐山駅、武蔵嵐山六角堂上までの東武定期バスは、九月十六日開通と決定、会社から役場に通知があった。
『菅谷村報道』125号 1961年(昭和36)8月15日
停留所は、役場前、平沢、公会堂前の三ケ所、運賃は全線十円の見込み。
東武バス開通祝
別項のとおり、東松山─嵐山駅─武蔵嵐山間東武定期バスは、九月十六日から開通したが、地元、村、村観光協会、商工会ではこれを記念して、午前十時からその祝賀式を行つた。折悪しく、十八九台風の襲来で万国旗の飾りつけや、花火打上げ等の計画は不可能だつたが、十時二十分先ず運転手、車掌さんに花束を送り、村長がテープを切つて、新村建設以来最初のバスが動き出した。当日の参会者は主催者側、青木村長、小林助役、青木議長、市川副議長、福島商工会長、関根内田副会長、来賓は、東武自動車局埼玉事務所長、東武の東上業務局長代理、嵐山駅長、関根茂良氏一平荘川崎支配人等で一同は、嵐山まで便乗して、運行状況を視察、十一時から内田屋を会場とする祝賀の宴に臨んだ。
『菅谷村報道』126号 1961年(昭和36)9月20日
東武バス開通式
嵐山駅と明覚駅間にバスが動いたのは昭和十二・三年(1937・1938)頃、戦争中はこれがと絶えて以後十数年槻川をはさむこの地区は、依然明治・大正時代の姿で眠つていた。
『菅谷村報道』127号 1961年(昭和36)11月30日
景勝地武蔵嵐山の開発も、今の処まだはかばかしくないが、村の要請が通つて、九月十六日から、駅と嵐山の間に定期バスが開通した。村では県道の改修と伴つて、これを南は玉川、北は古里まで延長する計画。バス開通は、村民の眠りをさます黎明(れいめい)という訳か。