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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第1節:景勝・名所

比企西国札所

比企西国札所27番「千手院」

 大平山(おおびらやま)を背にした山麓に比企西国札所二十七番普門山(ふもんざん)千手院がある。参道を上って、六道地蔵の手前の内田勇家墓地にある六十六部納経塔は、下野国南摩(なんま)(現栃木県鹿沼市)の人、牛久十蔵の供養塔である。1748年(寛延元)、諸国巡礼の途上、この地で倒れた。

千手堂の由来

 1941年(昭和16)1月、本尊の初開帳の日、惣代(そうだい)の一人である瀬山光太郎氏が持参したという「千手観世音由緒(ゆいしょ)」によれば、村上天皇の時代、962年(応和2)に千手観音堂が建てられたという。醍醐・村上天皇の時代は天皇親政が実施され、のちに「延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治」とよばれたが、貴族が支配する社会のもとで有力な農民層が武装し、地方に武士団をつくり始めていた。平将門や藤原純友が活躍した「承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱」もこの時代である。国は生活に困った人たちに施しを行い、社会の不安を鎮めるために諸国に神社や寺院を建立して信仰することを勧めていた。千手堂の本尊は、一切衆生(しゅじょう)を救おうとする慈悲深い千手観音であった。1896年(明治29)の「寺籍財産明細帳」によれば、その千手観音像は949年(天暦3)、村上天皇自作のものであったという。

千手院の時代へ

 その後何度か観音堂の焼失があったが、1546年(天文15(てんぶん))に亡くなった遠山の遠山寺二世の幻室伊蓬(いほう)和尚を開山として千手院が創建された。千手観世音を祀るお堂であったものが、ここに寺院としての形を整え、曹洞宗の千手院となったのである。

寺院の焼失と再建

 1876年(明治9)3月19日、千手院は火災によって焼失した。それから七年後に、観音堂再建の取り組みが本格的に開始された。住職沢田俊明(しゅんめい)を先頭に、千手堂村をはじめ、松山町、遠山、平沢、鎌形、菅谷、大蔵、志賀、広野、越畑、杉山、小川、玉川、月輪の各村の募縁(ぼえん)世話人が活躍して寄付を募った。当時の檀家数はわずか二十戸、それだけに各地域の協力を得ての再建であり、本堂は杉山村豊岡(とよおか)にあった蔵身庵(ぞうしんあん)の建物を購入した。

寺院の庭で剣術指導

 沢田俊明は甲源一刀流の名手で、1880年(明治13)から、剣術の門人をとって指導を始めた。焼け跡の寺院の庭で、若者たちが集まって技を磨いた。その中に後の名剣士瀬山鉄五郎がいた。彼は『英名録』という自らの剣の記録を残している。千手院本堂入口正面には、彼が願主となった御詠歌の奉納額が掲げられている。

   雲かすみ たなびく峰の千手堂
          心は 法(のり)の花の一筋

 比企西国札所めぐりの御詠歌集では、「雲かすみ 輝く峰の千手堂 心は 法の花の一筋」とあり、「たなびく」ではなく「輝く」が比企西国札所創設期のものである。

博物誌だより128(嵐山町広報2005年3月)から作成

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