ページの先頭

第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第1節:景勝・名所

比企西国札所

比企西国札所26番「多田堂」

 菅谷(すがや)の東昌寺(とうしょうじ)の山門を入ると、すぐ左側に観音堂(かんのんどう)がある。この観音堂の前身が多田堂で、岡松屋の道路向にある菅谷自治会館の場所、字東側(ひがしがわ)の菅谷154番地にあった。

東昌寺の観音堂|写真

秀忠の乳母と岡部氏

 多田堂の本尊は千手観音(せんじゅかんのん)である。これは徳川将軍家二代秀忠の幼少期に乳母(うば)を勤めた岡部局(おかべのつぼね)が持仏(じぶつ)にしたことに由来すると言われている。菅谷の地は江戸時代の前半期は旗本岡部氏の知行地(ちぎょうち)であった。岡部氏の嵐山町域の知行地は他に、志賀(しか)、太郎丸(たろうまる)、勝田(かちだ)、滑川(なめがわ)町域では中尾(なかお)、水房(みずふさ)などがあった。岡部氏の先祖は岡部主水(もんど)という。主水の父は今川義元の家臣川村善右衛門(ぜんえもん)、母は岡部與惣兵衛(よそべい)の娘である。善右衛門は若くして亡くなり、妻は徳川家康に召し出され、幼い秀忠の乳母を勤めた。やがて主水も家康に仕えたが、家康から母方の岡部姓を名乗るように言われ、岡部主水と称した。
 岡部局は、将軍秀忠の病気全快のお礼と武運(ぶうん)長久(ちょうきゅう)を祈願して江戸の池上本門寺(いけがみほんもんじ)に五重塔を寄進(きしん)した。これは関東地方に現存する最古・最大の塔で、近年、全面解体修理が施(ほどこ)された。国指定の重要文化財である。

多田堂の由来

 菅谷に居住していた多田七左衛門は、元禄期に岡部藤十郎(とうじゅうろう)から知行地菅谷村の支配を命じられた。二代目多田平馬重勝(ただへいましげかつ)は岡部家から十石(こく)五人扶持(ぶち)を与えられ、多田家は「陣屋(じんや)」と言われるようになった。岡部氏は菅谷の長慶寺(ちょうけいじ)跡地と伝えられた土地を1706年(宝永3(ほうえい))、多田家に与えた。長慶寺は畠山重忠が菅谷館(やかた)のかたわらに建て、後に館の鬼門(きもん)よけの地に移した寺と言われている。多田家は岡部家から賜(たまわ)ったこの地にお堂を建て、岡部局が持仏として信仰していた千手観音を祀(まつ)って多田堂と名付け、その地を多田家の墳墓(ふんぼ)の地とした。
 多田堂建立(こんりゅう)のいきさつは、菅谷自治会館の脇にある多田家の墓地にある高さ約2mの石碑に刻まれている。この碑は1797年(寛政9(かんせい)9)、三代目多田一角英貞(いっかくひでさだ)により建てられた。
 多田堂(ただのどう)は1723年(享保8(きょうほう)8)、比企西国(ひきさいごく)二十六番札所(ふだしょ)となり、人々の信仰をあつめて賑(にぎ)わった。その御詠歌(ごえいか)は次のとおりである。
   頼(たの)め多田 菅谷木陰(こかげ)の 雨宿(あまやど)り
            誓(ちか)ひもらさじ 葉桜(はざくら)の笠(かさ)
 幕末には多田堂の維持が困難になり、菅谷村の人たちが維持に協力し、地元では千日堂(せんにちどう)と呼んでいたが、明治になって多田山(たださん)千日堂と改称、毎年9月20日に祭典の行事を行ってきた。1935年(昭和10)12月3日の菅谷の大火で間口(まぐち)二間四尺(約4.9m)奥行(おくゆき)三間四尺(約6.7m)の本堂は全焼。現在は東昌寺境内(けいだい)に観音堂として再建されている。

観音堂由来|写真

博物誌だより123(嵐山町広報2004年11月)から作成

このページの先頭へ ▲