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第6巻【近世・近代・現代編】- 第3章:産業・観光

第1節:景勝・名所

八景

田幡和十郎の「太郎丸八景」

 1828年(文政11)秋、田幡和十郎は太郎丸のすぐれた景観(けいかん)八ヶ所を選んで漢詩・和歌に詠んだ。和十郎弱冠(じゃっかん)十八歳の時であった。
 太郎丸の佳景八ヶ所の詩歌は次の様なものである。


  三本松の夜雨
 今夜通霄思渺然
 霏々戸外雨如烟
 風吹松滴向何落
 更憶明朝花色鮮

 いつの間に ふるともなくて 夜の雨
          三もとの松の 雫にぞしる


  淡洲社暮雪
 風来寒冽自然深
 雲淡頻々一色陰
 日暮玉英飄堕積
 松杉真白満宮森

 神心 にごらぬからに 淡の洲の
          夕べにきよく 雪のふりける


  市の川帰帆
 萬頃晴川興自幽
 幾多漁艇賈前浮
 波心一脉清流徹
 帆影随風帰峯頭

 家々の 土産(つと)をもとめて 市の川
          村浪もよく 帰ゑる友船


  萱場晴嵐
 晴日紅雲興不窮
 忽然萬籟満山中
 即今頻失煙霞色
 薄葉飄來撹碧空

 四方山の 雲吹それて おちこちの
          あらしになびく 尾花かるかや


  平ヶ谷戸落雁
 白雲千里望淒然
 野色西風興可憐
 幾陣雁飛何処去
 追随叫々落平田

 朝な夕な 平ヶや戸に 友の居て
          空行雁も 落るこの頃


  妻夫橋夕照
 幾重青嶂碧渓潯
 民竈軽烟出樹陰
 数里引筇行客渡
 橋頭残照夕陽沈

 忍びかね 夕日のてりし 旅人の
          女夫(めおと)のはしを 恋わたるなり


  向山晩鐘
 林籟山風祇樹隈
 嶺雲還盡素烟堆
 入看幽景青連宇
 処々鐘声暮色催

 詣ふでつる 人の帰りを むかい山
          のぼればひヾく 入相のかね


  三堂山秋の月
 山色淒涼爽気催
 雲晴峯畔月明来
 清輝次第翻天外
 含露柱花徹暁開

 秋の夜の さやかのかけを 三堂山
          名におふ月も 外なかなくに


 抑々(そもそも)、八つの風景(八景)を選んで詩歌を詠ずる風習は中国北宋時代(960-1127)に洞庭湖・潚水(しゅうすい)・湘水(しょうすい)を中心として、すぐれた景観を選んで詠んだ「潚湘八景」にはじまる。これがわが国に伝わったのは室町時代(1336-1579)で、五山禅僧達が漢詩文や山水画を愛好したことによって取り入れられていった。1500年(明応9)公家の近衛政家・尚道父子が琵琶湖畔に遊んだ時、付近の景観の美しさに感動して和歌八首を詠んだ。これが「近江八景」と云われるもので、わが国「八景もの」の元祖となった。その後江戸時代にはいり「八景もの」がだんだんと流行して、各地に「〇〇八景」がつくられていった。その原因は霊場巡拝(伊勢参り・大山詣・四国札所めぐり等々)を中心に諸国を旅することが流行し、名所・景勝地を訪れることが盛んとなったこと。又、江戸の中期以降は浮世絵版画が興り、景勝地の宣伝にこれが利用されたこと。安藤広重(1797-1858)の「東海道五十三次」を始め「江戸百景」とならんで「近江八景」を版画にして世にだしたのが好例である。又、1830年(文政13)に再販され、当時の文章規範とされた「御家流諸状用文章」の頭書欄に「近江八景」の漢詩・和歌及び略画ながら当時の景観を偲ばせる図画が収録されている。恐らく庶民の教養として読み伝えられたであろう。そうしたことが「太郎丸八景」を生んだと思われる。
 中国の「潚湘八景」わが国の「近江八景」そして和十郎の「太郎丸八景」の三者に共通しているのは景観の主題である。「秋月(しゅうげつ)」(秋の夜の月)、「夕照(せきしょう)」(ゆうばえ)、「晴嵐(せいらん)」(晴れた日のかすみ)、「帰帆(きはん)」(帰路につく帆掛け舟)、「晩鐘(ばんしょう)」(入相(いりあい)の鐘)、「夜雨」(夜ふる雨)、「落雁(らくがん)」(空から舞い下りる雁)、「暮雪(ぼせつ)」(くれがたに降る雪)の八つで、どの主題も連想してみれば美しい情景で、詩歌の題材としてはこの上ないものだが、太郎丸において、その場所を特定することは、今となっては大変難しい。

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