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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第6節:歴代三役・功労者等

功労者

井上萬吉・小伝

 1846年(弘化3)井上萬吉(いのうえまんきち)は勝次郎・ちよの長男として広野に誕生した。字*1は春昌、号して文秀斎・漁樵*2と称した。

*1:字(あざな)…実名の他に付ける別名。
*2:漁樵(ぎょしょう)…りょうしときこりのことで、名利を離れて民間に暮らすこと。

 1857年(安政3)十二歳で杉山義順(寛斎)の門に入七年間にわたって習字・和漢の書を学んだ。墓誌によれば「幼より学を好み」となっているが、就学の年齢は決して早くはなかった。ただ彼はこれに満足せず、その後更に忍藩*1の武士で儒学者であった塩野瑞翁に就いて1862年(文久2)から五年間漢学の修業に没頭。漢文には精通したことであろう、自ら「文秀斎」と号する程であった。更に1866年(慶応2)からは上州(栃木県)上五箇村の算学者金子治三郎について和算(相場割=比例・十乗法=掛算等)の研究を行っていた。この研究が何時まで続けられたか定かではないが、後年、1888年(明治21)この成果として「草算例題下」【榛沢郡於田舎楼井上漁樵誌】を作成した。和算の例題六十問と解答を書き記したものである。この年は押切村【大里郡】から持田久五郎*2が長女みつの聟となり、養嗣子に入った年である。教員であった久五郎へ先輩として、かつて学び研究した算術の問題を書き送ったのだろう。

*1:忍藩(おしはん)…行田に居城を構えた一万石の譜代藩。
*2:无邪志同盟を創立啓蒙活動を行った教育者。

 この間に伊勢根村【現・小川町】の柴崎次右衛門の二女きんと結婚、長女みつが誕生している。一人前の男子として一家を形成したが、青年としての悩みも持っていた。彼の書き残した一文「筆のまゝに」は青年としての覚悟を記したものであるが、人と人との関り合いについて懊悩し、世の中の生き方にとまどい、彼なりの人生哲学を開陳している。曰、「もっともっと心に於て精神に於て其の観念に於て充分の独立独歩の気性を養って行かねばなるまい」又「吾等が自己を愛し、自己を信じ、自己の行為をつゝしむも無意味のことではない。こうした時に他人を愛し、他を尊重し他をいましむることが出来るのだ」云々と。独立独歩の気性即ち自律した人間となること、そして自己を確立することが、利己主義ではなく他を愛し尊重することの出来る人になると述べている。この考え方は恐らく彼の生涯にわたって貫かれた姿勢であったろう。墓誌には「居士天資温厚」と記されているが、こうした考えの人であったから人々は温厚篤実な人柄と評していたのであろう。

 1873年(明治6)10月、二十八歳の時暢発(ちょうはつ)学校の徴集生となった。時の政府は1872年(明治5)学制を発布して、小学校の創設をうながしたが、生徒を教える先生の不足を痛感し、各地に教員養成の伝習所を設けさせた。熊谷県が開設した教員伝習所が暢発学校で、本庄に設けられた。彼はここの徴集生*1となったのである。次いで1874年(明治7)熊谷に設けられようとしていた荒川学校【教員養成所】が松山に誘致され2月15日開校されたので、彼はわずか四ヶ月で荒川学校へ定員生として転校することになった。ここで彼は直ちに2月16日舎長*2を命ぜられている。年齢が二十九歳と高かったこと、かなりの学問修行が認められた為であろう。

*1:教員養成のため呼び集められた生徒。
*2:学舎制の名残でその学校生徒の長という立場。

 その後再び熊谷の暢発学校に移るが、1875年(明治8)10月、三十歳にして同校を卒業。同時に上横田学校【小川町】の教員を申し付けられた。翌1876年(明治9)には一等授業生*1となり、1878年(明治11)には四級訓導補*2に昇進したが1880年(明治13)10月同校を退職した。1879年(明治12)9月教育令が公布され、その中で公立小学校教員は師範学校卒業の者と定められた。又1880年7月には埼玉県令より「公立小学校教員委嘱規則」が制定され通知されたことによって、その資格取得が困難であることを察知し、五年間の教員生活に終止符を打ったのである。

*1:正規の訓導を補助する教員三等から一等まである。
*2:訓導の下にあって五級から一級まである。

 その年の11月、廣野村の戸長*1となり、三十五歳にして教員から行政官へと大きく転身することとなった。翌1881年(明治13)には第十学区の学務委員に加えられた。この制度は1879年(明治12)設置、学校事務を管理し、児童の就学、学校の設置、教員の任命等にかかわり、1880年(明治13)には戸長が兼務として加えられ、学校教育発展期の大切な役割を担っていた。以後彼は大正に至るまで幾度か再任され、地域初等教育の充実発展のために貢献した。教員として果たせなかった夢を学務委員として成し遂げたことになり、その意味では生涯教育者であったとも言えるだろう。

*1:町村におかれ行政事務を司るとともに町村を代表した。

 1884年(明治17)聯合町村制*1により誕生した越畑村聯合役場の主席筆生【書記】となり、以来1895年(明治28)辞職するまで書記の仕事は続けられた。途中1889年(明治22)年町村制が施行され越畑村聯合の七ヶ村は七郷村となった。彼は同年四月選ばれて村会議員となった。以来議員を歴任すること以下の通りであった。

*1:数ヶ町村が聯合(連合)して一つの行政体を形成する制度。

1889年(明治22)4月〜1892年(明治25)4月
1895年(明治28)3月〜1901年(明治34)3月
1904年(明治37)4月〜1907年(明治40)年4月
1917年(大正6)4月〜1921年(大正10)4月
1921年(大正10)4月〜1925年(大正14)4月

 何と三十五年間に五度、村会議員として村政に参画し、最後は死去する直前までその任にあったことになる。またこの間1907年(明治40)5月から翌年4月までの一年間は齢六十二歳にして村長の重責を担って、村政を指揮したのである。書記としての行政官から脱皮して政治家として戸長・村会議員・村長を歴任し、人生の大半を独立独歩、不屈の精神力をもって村政に尽くしたのである。その他 衛生組合委員・常設委員・衛生委員・区長・消防頭取・軍人分会長・七郷小学校新築副委員長・農会長・七郷青年団顧問等々数多公職に就き、いずれにおいても誠実に其の職務を全うされた。また、地域社会の人々の精神的拠りどころとなっていた寺社に対しても、廣野村八宮神社氏子総代或いは広正寺中総代として貢献された。思うに常人のとうてい出来得る業とは云い難いところである。

 また寄附・献金・募金活動に積極的に協力してきた。日清・日露戦争期には陸軍への献金・軍事公債・国庫債券の購入、従軍者家族の扶助、菅谷・七郷を問わず小学校・役場の建設・運営費の援助、消防・警察への資金協力、慈恵救済資金募集委員として、帝国義勇艦隊建設奨励委員として、或いは大本山総持寺再建勧募委員としての資金協力と募金活動、枚挙に暇の無いほどである。これに対して数々の慰労・感謝状が送られている。学校建設に対して木杯、徴兵慰労義会から村幹事としての協力に対して木杯、慈恵救済資金募集の功により埼玉県知事から感謝状、大本山総持寺より勧募の功により御紋章入り金襴打敷*1そして1920年(大正9)すべての公務を去るに当たって村民から感謝の意をこめて、記念品唐金火鉢一対が送られた。彼が国家社会に尽瘁した功を称えるにしてはやや寂しい気もする。現在であれば地方自治の功により相等の勲章が授与されてしかるべきであったろう。ただ、名利をきらって漁樵と号したことを思えば彼の意に添ったことであったのかとも思う。

*1:金襴打敷(きんらんうちしき)…仏壇・仏具の敷物。

晩年の井上萬吉翁|集合写真
晩年の井上萬吉翁(前列向かって右)

 1925年(大正14)12月2日、彼は遂にその生涯を終えた。行年八十歳。生涯、温厚篤実な性格をもって、誠心誠意、各方面わたり多大の業績を残し、社会へ莫太の貢献をなした功績はまことに偉大であったといわざるを得ない。

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