第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政
功労者
明治四十五年(1912)建立の市川常吉の墓碑*1に「よく村治を補翼(ほよく)し郷党之が為に其の徳に浴せり」と、正に彼は生涯を通じて七郷村の基礎を築き、発展に寄与した偉丈夫(いじょうふ)であった。常吉は嘉永二年(1849)越畑に生まれ、明治十三年(1880)、32歳で越畑村の村会議員に選出されて以来、明治二十二年(1889)の町村合併後も議員に再三選ばれ、明治四十(1907)まで二十七年の永きに渡って村政に携わった。その間明治二十四年(1891)から二十七年にかけて助役として精励村政に尽くした。しかしその後再三助役に選出されながら、村長辞任問題に悩まされたことがもとで、固辞(こじ)して就任しなかった。
明治二十二年(1889)には衛生組長にも当選。当時内務省の指令で「清潔法」による、不衛生で伝染病の発生源と考えられた便所・下水・塵芥(じんかい)・井戸の清掃点検が春秋強力に推し進められ、常吉は絶えずこの実行に挺身(ていしん)していた。しかし赤痢等の伝染病が全国に蔓延(まんえん)するに至って、明治三十一年(1898)遂に「伝染病隔離病舎」の建設を企図、小川の医師関根温の指導を受けながらこれを実現。自らも看護にあたり多くの患者を救い、病気の流行を防ぐことができた。
また明治二十八年(1895)学務委員に選ばれ、以来十余年学校教育に関与、精力を尽くした。先ず学齢児童の就学不振に苦慮した常吉はその督励(とくれい)に心を砕(くだ)き、明治三十三年(1900)にはほぼ全国平均に達し、関係者を安堵(あんど)させた。だが明治三十六年(1903)に至って小学校の統合問題が起こった。七郷は明治二十六年(1893)以来二学区二小学校が分立して来たが、そのことが村を二分し、経済的にも立ち行かなくなったことを理由に議会は統合を決議したのである。ただこの統合に比企郡長の横槍が入り頓挫(とんざ)、村長・議員・学務委員の総辞職事件にまで発展した。明治四十二年(1909)常吉達の根強い努力により、高等科の併設も含めてその実現を見ることができた。
常吉は晩年の明治四十一年(1908)、道路調査委員に選任され、里道の改修に携(たずさ)わることとなった。この件は前年から協議され、県議達とも話し合いを重ねて来たことであったが、その構想は古里から七郷地区を貫通して菅谷の県道に達する幹線道路で、計画立案、県の承認、住民の同意等困難が山積されている大事業であった。明治42年(1909)には副委員長に選任され大事を付託されたが、業半(ぎょうなか)ばにしてその年の九月病に倒れ、同月四日、痛恨の思いを残し、多くの人々に惜しまれながら、六十一歳の生涯をとじた。市川常吉は我が郷党の基礎を築いた偉大な人物と云うことができる。
『嵐山町広報』146号「博物誌だより108」2003年(平成15)6月1日 から作成