第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政
論壇
広報とは何か
広報研究会に出席して報道委員会長 関根昭二
七月二十六日嵐山町で広報の合同研究会が開かれた。これには県の広報課から二名、比企、入間両郡下の町村の他、幸手、蓮田、久喜、北本、松伏、吉川などの各町からも参加して、最近発行された出席町村の広報紙について、お互いに批評し合ったわけである。
『嵐山町報道』216号「論壇」1971年(昭和46)9月1日
この会合に参加して感じることは、こうした研究会がまことに意義のないものだということである。批評されたことは、写真のトリミングがたりないとか、見出しの活字がうまくないとか、レイアウトの工夫がたりないとか、要するに編集の技術的な面にのみ注がれている。こうした編集のテクニックは広報紙にとって枝葉末節のことである。
こうしたことを指導する県自体の考え方も理解に苦しむ。いまの広報紙がどこの町村でも殆ど同じようなタイプになったのも県の指導によるものであろう。県はこうした編集テクニックの指導よりも、いかなる内容をもった記事を掲載すべきかを指導すべきである。
今度の研究会には残念ながら記事そのものについての研究、批評を聞かなかった。これでは、「役所と住民をつなぐ接点」(朝日新聞社説八月二二日)としての広報の使命は到底達せられない。「広報とは何をいかに住民に伝えていくべきなのか」という命題に対してこそ論議が闘はさるべきではないか。
つぎに広報紙の中には自ら取材し、自ら記事を書いたものが少ないということである。これでは広報を編集する資格はない。自ら原稿を書くことによって、編集者は責任と使命を感ずべきである。各課からの原稿の寄せ集めや、印刷物やパンフレットの抜き書きの記事で紙面を埋めるような広報紙では、住民は読む意欲を失ってしまうのではなかろうか。
その町や村に関係のない記事も目につく。「光化学スモッグ」を掲載している毛呂山や蓮田、「やせた人がふとる法」「病人にすずしい夏を」の吉川、よその雑誌に載っているマンガを連載している松伏、
幸手。同じ内容の記事を幾つかの広報紙が同じように掲載しているが、これは資料の出所が同じためであろう。「夏休みを楽しく-規則正しい学習と生活を」(伊奈、吉川、松伏、毛呂山、鶴ヶ島、蓮田)、「夏の交通安全」に関する記事(吉川、松伏、小川、三芳、日高)、「所得税の予定納税と減額申請」「花火の事故防止」、その他幾つかの記事が共通していた。
こういう主体性のない広報紙の在り方こそ批判さるべきであろう。県の係官を招いて開かれる研究会が単なる編集技術に終始してしまうならば、編集の前進はなく、住民の求める広報にはなり得ないし、研究会は無意味な存在となってしまうであろう。