第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政
「報道」三〇〇号に寄せて
報道委員会会長 関根昭二
「報道」は今号をもって三〇〇号に達した。昭和二十五年四月に第一号を発行して以来三十一年の歳月が流れている。第一号以来、引き続いてではない が関係してきた者として深い感慨を覚えざるをえない。今でも当時の文章を読み返してみると私も若かったなあという感情が甦(よみがえ)ってくる。情熱を傾けて「報道」に取り組んだ時代のことが思い出されてくる。
今、手もとにある創刊当時の記事を読みながら往事を回想してみると、それは私にとって見果てぬ夢であり、青春の一頁でもある。
第五号に『山王台上絢爛(けんらん)の偉容成る!!』という見出しで菅谷中学校新校舎の竣工を記事にした。この校舎は新制中学の発足にともない菅谷小学校の木造校舎に付属して建てられたもので、当時は立派な建物に感じられたが、「絢爛な偉容」とはオーバーな表現でありすぎた。今この校舎は取り壊されてない。
第八号は「熱戦敢闘第三回村民体育大会終る」の記事。
『澄み切った青空、紫紺の秩父連山、黄金なす畑々、秋の香り冷やびやとする大気、白きライン、万国旗のいろどり、緑の大アーチ、そして青空をとどろかす花火の音。すべてがこの日、山王台上に繰りひろげられる精鋭五百の菅谷健児の敢闘に相応(ふさわ)しきものばかりである』
何という若々しい稚気に溢れた文章であったことだろう。
第九号に『昔を今に、部落めぐりあるき』という題名で連載ものを書く予定にしていた。しかし長く続かず、将軍沢の巻その一、その二、思想の巻その一、大正時代。で終ってしまった。その序文に云う。…今日生きている年老いた人々は、明治の代に生まれた人々ばかりである。でもそれらの人々に私たちはありし日の私たちの村の姿を尋ねることができるであろう。更にはそれらの人々が遠い日のこととして語り伝えられてきた数々の物語を聞くことができるであろう。そうして私たちは、私たちの郷土の歩みを云わば歴史の影の部分を知ることができるであろう。こうした歴史の影の部分を記録に留め、更にその生活史的意義を解明してみたい念願でこの「部落めぐりあるき」の企てを起こしたのである。
これは一つの「思い出の記」である。村人の心の奥底に秘められたささやかな懐古録である。
そうして菅谷村の現代的風土記である……。続いて書いた「将軍沢の巻 その一」は関根【茂章】町長に称讃されたものであるがその一部を紹介する。
私はある晴れた晩秋の一日この笛吹峠を訪れてみた。将軍沢から亀井村須江に通ずる幅二間ほどの林道は松葉がこぼれ、くぬぎの枯葉が散って歩く度にかさかさと鳴った。焚木でも取っているのか枯枝を折る音が聞える。松とくぬぎの山が幾重にもかさなり、その谷間は田圃になって稲が掛けてあった。松林を抜け坂を上ると道は平になり、行手に石碑が見えた……。
千軍万馬の関東武士達が鎧甲(よろいかぶと)に身を固め、白刃(はくじん)をひらめかして戦ったのであろうか。どよめく人声、乱れる馬の足音、鬨(とき)の声、太鼓の音、鐘の響、ほら貝の音、そして剣撃の響と人々のうめき声−−それらはこの谷々に響き渡ったことであろう。だが今聞くべくもなくしのぶよすがすらない。ただ颯々(そうそう)たる松籟(しょうらい)の音とささたるすすきの揺らぎとちちたる小鳥の囀(さえず)りのみである。この峠に生い繁っている松やくぬぎはそして道ばたの小草は古き日の面影を語ることができるであろうか。
その昔、どこからともなく聞こえてきた笛の音を今もなお秋風の中にささやくことができるというのであろうか……。
この碑の建っている所は私の今上って来た道ともう一本の道とが交錯(こうさく)している四辻(よつつじ)になっている。この道は岩殿観音から平村慈光寺観音へ通ずる道で巡礼街道と呼ばれている。白い脚絆(きゃはん)にわらぢを履き遍路笠をかぶった巡礼達が鈴を鳴らしながらこの道を通って行ったことであろう。この道を少し行くと学有林があるが私は亀井村の方へ下りて行った。眼の前が急に明るくなると、よく開けた田圃が見え稲はすっかり刈りとられてきれいに掛けてあった。藁屋根の人家からは炊煙(すいえん)が上り、大きな沼が鈍く光っていた。そうして銀色の鉄柱が果(はて)しもなく小春日和の中に続いていた。遠く秩父の山波は薄紫に煙り、近くの山は青く或は紅葉に色どられていた。日だまりに腰かけてこれらの景にみとれていた私は正午近いのを感じて峠を下ることにした。同じ道を帰るのも愚だと思い途中の分れ道から左へ降りて行った。もとの上り口へ出ると思っていた私は全く見なれない光景に出逢ってしまった。左手は丘ですすきが一面に白くほほけ、右手は松林でその谷間に田圃があり、その向うはスロープをなした畑が続き、さらに笠山が見えるまことにおだやかな自然の美景である。それは嵐山のごとくはなやかではない。云ってみれば素朴の美景とでも云うのであろうか。然しここは一体どこであろう。田圃で稲を刈っている人に尋ねたらオオガヒだという。オオガヒとは何村ですかとさらに尋ねたら菅谷村の鎌形だという。私は驚いて今一度この景を見直してみた。菅谷村にもこんな平和な美しい地があったのかと思わずにはいられなかったのである。私がこれを書いたのは昭和二十五年(1950)の秋である。今この文章を読むと当時の光景がありありと脳裡(のうり)によみがえってくる。一人カメラを肩にあの峠道を歩いた頃がなつかしい。しかし、すべてが茫々(ぼうぼう)たる過去の世界であり、吾が青春の形身である。
『嵐山町報道』第300号、1981年(昭和56)9月25日