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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第5節:報道委員会と『菅谷村・嵐山町報道』

公民館の落成と報道発行二十周年に際して

                  嵐山町長 関根茂章
 公民館は期待通りに落成した。題字の揮毫(きごう)をいただいた知事さん、ご指導をいただいた県関係者、土地を提供して下された地主の皆さん、設計・監督・施工にあたられた業者の方々、更にこの建設を献身的に推進された建設委員の各位、またご指導やご協力をいただいた多くの方々に心からの敬意と感謝をささげたい。
 公民館はわが嵐山町の「シンボル」である。そして多くの夢と期待がかけられている。「新しき酒は新しき革袋に」のたとえのごとく新公民館長を中心として、町民のための学習と集会の広場として、さらにこの地方の会場として活用されることを期待して止まない。
 尚この公民館の建設には旧菅谷農校任意組合及びそのP・T・Aよりの資金が建設費の一部としてつかわれた。菅農卒業生並びにその関係者のために、新公民館の一室を「菅農会館」と呼び、「菅農」の名を留めさせたいと思っている。
 尚、この建設に当り、自主的に多額の寄附をよせられた、鶴田又男、安藤専一の両氏及び岡田■毀氏描くところの「飛鴨」を寄贈された長谷川黙龍氏に対し深甚なる感謝をささげたい。
 また公民館の落成を祝福して、自らの手によって磨き作られた素晴らしい贈り物「未来」をよせていただいた大島元先生を中心とした菅小アスナロ学級の生徒諸君に、心からお礼を申上げたい。
 「報道」は自治体の新聞として、戦後G・H・Qの管理統制のきびしかった時代、理想と願いをこめて誕生したのであった。あれから早くも二十年の年月が流れた。よくもたどり来しかなの感がに深い。
 ガンジーの糸つむぎ機が彼の手によって静かに廻転し始めた時から、印度民族の独立運動の第一頁が綴られるのであるが、わが「報道」も、敗戦後の自由・独立・民主化の嵐の中を創業期の理想と意志を一貫して堅持して来た。自治体当時の大部分の新聞が、市町村の単なる「お知らせ」程度に変容してしまった中にあってわが「報道」は、毅然として屹立(きつりつ)する秀峰を仰ぐ感がする。
 また同寺に「報道」二十年の記事は、そのままわが嵐山町の歴史を物語るものであり、多くの人々の辛酸と努力、汗と苦汁、喜びと哀しみが包蔵されているのである。
 二十年の報道の歴史を築かれた関係者の皆さん、また支援された町民の各位に深い敬意と感謝を捧げるものである。
 更に今後、この栄ある歴史の上に、この栄ある歴史の上に、大いに努力され公正なる客観的手法と、厳正なる批判精神を基調として活動されるとともに、変貌する時代の中に、町民の行く手を示す「ともし火」であってもらいたい。


挨拶 「報道」発行二十周年に当って

                  報道委員会長 関根昭二
 「報道」の第一号が発行されたのは、昭和二十五年(1950)四月二十日である。二十年の歳月が夢の様に流れ去った。
 関根町長が「報道」二〇〇号に寄せた文章にもあるように自由と「燃えるような情熱と、言論の自由と、政治的・精神的独立を強く心に期して第一号を住民に送ったこの創業の精神が強弱はあったにしろ、この二十年間、底流として「報道」を支えて来た。」確かにそうなのである。この一文ほど適確に「報道」の精神的伝統を語り得ているものはない。勿論、町長自身、当時の参画者であり、知性に溢れた青年だったのである。「報道」は固苦しいとまで云はれたほど品格を高らしめた所以のものは初代の会長であった小林博治氏の該博な知識と軽妙な筆法からなる一文は紙面に一異彩を放ったものである。
 こうして「報道」は他町村に見られない独特なスタイルを編み出したのである。
 更に「報道」の費用はすべて町の財政で賄れてきたのであり、この点歴代の町村長と議会に深い敬意と感謝を申し上げたい。また二十年間にわたって愛読下さった町民の皆さんに心からのお礼を申し上げたい。


「報道」人功過帳
      — 二十周年に寄す —

                      小林博治
 昭和二十六年(1951)六月、東松山市の「埼玉日報」は、「報道」を評して、「村民必読の報道」の見出しで「各町村に報道委員会があってその町村運営、その他を細大もらさず住民に知らせているが、中でも比企郡菅谷村の報道は、群を抜き理想的だと言う評がある。……運営委員には同村長高崎達蔵氏の外十七氏が選ばれている。…既に十三号を出し、発刊以来一ヶ年越しているが、号を重ねるごとにその編集ぶりも鮮やかで、村民必読の報道となっている。」と報じている。
 この「県かで群を抜き、理想的だ」と評せられた「報道」のスタッフは、二十六年五月に新役員が選ばれて、会長小林博治、副会長根岸三郎、関根昭二、委員森与資、出野憲平、大野昌三、侭田雪光、高崎達蔵、内田喜雄、内田誠次、小林久、杉田角太郎、関根茂章、高橋嘉明、金子重雄、中島金吾、金井元吉、柏俣長助、金井宣久、小沢長助、忍田喜三の二十一名となっている。
 埼玉日報から高く評価された「報道」はこれらの人達によって、作り出されたものである。よって今、「報道」二十周年の折り目の日に際会し、これらの人々を功過帳にのせ、その活動のあとを辿ってみることとしよう。自ら運営委員となって「報道」を育成した高崎村長は勿論、全部の委員についてそれぞれの持ち味を示した逸話がおもいだされるのであるが、この中で、関根昭二、関根茂章、大野昌三と私の四名が、編集を担当し、とくに、関連が深かったので先ず関根昭二あたりから始めてみることにする。
 ▽関根昭二君
 現在の嵐山町報道でも、続いて書いているのは、議会の審議状況つまり議員の質問、町長等の答弁のやりとりの記事であるが、その記事のはじめを作ったのが関根昭二君である。昭和二十六年二月の十一号に、前年末十二月の定例村会の模様を報道したのが、はじめでその後は、議会の開かれる毎に、関根君の傍聴記が紙面を飾って、村民の関心を集めた。十二号の「全面か単独か−国会議員さながらの大論戦−」は、第四面全部を埋めつくす長論で、論戦の状況が手に取るように描き出されている。こうして議会内の模様は、ありありと村民の目前にうつし出されることになった。関根君はいつの間にか、議会担当記者のようになり彼が議場に現はれると、沈滞気味の議場が急に引きしまり、発言も俄に活気を呈して来た。中には既に解決した無関係の問題を、わざわざ引張り出して、ハッタリ質問を試みる議員も出て来たと言うことである。カッコいいところを「報道」に書かせようという魂胆である。
 関根君のもう一つの仕事は、「あとがき」であった。これはただ編集上の都合、計画などを事務的に伝えると言う性質のものではなく、いはば、新聞のコラムを兼ねたものであった。一々例を上げる余裕がないが合理主義とロマンチシズムの交錯した彼一流のユニークな筆致で、自然の美を探求し自由や文化を説き、民主主義を論評した。その中で、彼は、議会尊重の熱意から発して「議員が発言しようとするときは、起立して議長と呼び、自席の番号を告げ、議長の許可を受けなければならないのに、殆んど守られていない。」「議事中は私語、喫煙等すべて議事を妨げる行為をなすことはできない。とあるのに、喫煙は、平然と行はれ、私語は盛んに交されている。このように、議員が自分で決定した議会規則を自から破っている現実に対して、我々は強く反省を要求する。」と言って議員を叱ったのである。
 さて議会の発言を、その侭書かれたり、議会のマナーについて、小言を言はれたりしては、議員たるもの、心中甚だ面白くないのは当然である。併も相手は、たかだか二十四才の若僧である。生意気だと言うことになったらしい。「報道などつぶしてしまえ」という議論が一部議員から出て来た。本気で言ったかどうか、それは分からないが、このような意見が出たことは事実であって、十三号の「あとがき」で「我々は常に“言論の自由”と言う基本的人権のもとに報道してきたのであり、いかなる地位や肩書にも恐れないのである。若しも、村会の模様を報じたために、一部議員の怒りを買ったとしても、それは全く議員の責任である。……報道をつぶしてしまえなどとは以ての外のことである。我々は今後も断固として議員の動静を精細に報じ、村民の選んだ議員が何を述べ、何をしたかについて、村民に報道しなければならない。」といって肩をいからせているのでも分る。
 これは実は私が書いたのであり前にも言ったが関根茂章君が、「村で金を出さぬと言うなら我々で小遣を出し合って続けていこう。」と言ったと言うのは多分この時のことだと思う。関根昭二君自身は「我々は民衆の“声なき声”に耳を傾け正義と自由を護るために勇敢に闘うことを誓ったのである。村会に反省を求め、消防団に警告を発し、農民の奮起を要望してきたのである。……」と書いた軒昴(けんこう)たる意気を示している。だが、今にして思えばこれら一連の高姿勢は、余り愛すべき稚気とは言えなかったのではないかと言う反省も起きないわけでもない。
 大学生の時、民俗学を学んだ関根君の感覚は、村の伝統について敏感にはたらいた。「私たちのささやかな生活の端々に、なにげない言葉の一片に、或はさりげない日常の慣習に、地名や呼名に、年中行事に、更には自然の一木一草に、私たちの遠い祖先の血が脈々と流れているのである。…(第九号参照)」と言って、「昔を今に部落めぐりあるき」の記事が登場したのである。これは彼の建康不調のため、将軍沢の巻と、思想の巻で中絶した。惜しいことであった。然し、これは、彼が教育委員に就任するに及んで再びよみがえり、彼の発想で村史編纂の計画がはじめられた。それをうけて私はしばらく「古老にきく」を書いて連載した。「嵐山町誌」の系譜は彼の「部落めぐり歩き」に始まるのである。
 (この稿は、関根昭二君からはじめて、関根茂章君、高崎村長など次々と続けるつもりであったが、まだ関根昭二君が終わらぬ中に紙数がつきた。又、こんなことを書いていると、私自身は愉しくてならないのだが、「何を下らぬことを」といって、眉をひそめる人も必ずあると思う。それでこの辺で中断するし、又後日続けて書こうと言う気持も別にもっていないのである。)


祝辞 報道二十周年に寄す

             嵐山町議会議長 中島元次郎
 嵐山町報道が発刊されてからここに二十周年を迎えるに当り、心から祝福と感謝の意を捧げたいと存じます。想えば戦後の立ち直りが、まだ混沌として居た、世情の中で昭和二十五年初めて発刊されてより、大きく変り行く社会的條件を常に捕え乍ら二十年と云う、長い星霜をよりよき報道紙発行の為に、日夜分かたぬ懸命の御努力と御苦心を重ねて来られました。当初から現在に至るまでの報道委員の方々を初め、長い期間にわたり尊い資料の提供御意見の寄稿をなされました数多い町民の方々の対しまして衷心(ちゆうしん)より敬意と感謝を申し上げます。
 現在埼玉県には九十三の市町村が有り、その大部分の市町村に於て、何等かの形で広報的な印刷物が発行されて居ると聞きますが、その中で吾が町の発行する報道の様に長い伝統と特殊性を持っているものは、非常に数が少ないと云われて居ります。即ちそのほとんどの広報紙が、その市町村の公的な立場で一方的に行政財政等の面でのみ、そのPRを取り上げて居るのが多いのに対し嵐山町の報道のシステムは町の一般行、財政はもち論の事、時には自由論壇に花を咲かせ、時には古文書等の抽出により、歴史の探究、史跡、文化財の照会等によって、町の過去と現代を結び付け、読む人をして愛郷の念を再認識して戴く効果は大なるものが有ると思います。
 又其の他種々な投稿によって貴重な御意見等が掲載され、いつも紙面に活々とした雰囲気が溢れています。私達は何事によらず自分を取巻く身近な社会をよく知りたいと思う感情が有りますが、このポイントをよく捕らえて発行される吾が町の報道は常に多くの町民から愛され喜んで熟読され、そして是認されて参りました事実は、高く評価され、尊敬されなければならないと共に、今日ここ迄健全な発展をして来た要素がここに有ると思います。今更私が申す迄もなく今や現在の日本の時局は多難を予測される中で政治も経済も思想、宗教、文化等各界いずれの面でも前途に大きな変貌が来る事が感じさせられます。
 こうした国の動きの中に有って地方自治体も大なり小なり、その影響を受けざるを得ません。特に比企広域開発構想の中で重要な位置に有る嵐山町は前途に山積した問題をかかえて居ると云えましょう。この様な時代に当り、過去二十年間常に町の動勢を浮彫にしつつ、いつも町民の指針となって参りました報道の今後一層の御発展と活躍を御期待申上げてお祝いの言葉と致します。

『嵐山町報道』203号 1970年(昭和45)4月15日
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