第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政
「報道」の初期
(初代会長 小林博治)
『嵐山町報道』200号 1969年(昭和44)12月10日
「報道」第一号が出たのは、昭和二十五年(1950)四月二十日、丁度二十年前になる。その第一号に、私は「昔の村民は、殿様の言いなり次第に生活したが、今は民主々義の時代であるから、村のことは何でも自分たちでしなければならない。面倒でもあるが張り合いも多い。村長や村議を選んで、村政の計画をたてたり、それを実施したりしなければならない。学校を建てる、道路をつくる、治水や防火や防疫や、産業振興など、全て自分たちで計画し実行しなければならない。そしてその計費も自分たちで出すのである。殿様に絶対服従の時代より、うんと自由になったが、その反面重い責任がかゝって来ている。よい村にして幸福になるのも、悪い村にして不平不満で暮らすのも、みんな自分たちのやり方次第である。そこで、そのよい村をつくるためには、村の現情をよく知ること、村民お互の意思の疎通をはかること、国や県の法律規則などにも通ずることが是非必要である。この必要に即応して、報道委員会が生まれたのである。」と書いて、会長の挨拶に代えた。「報道」はよい村を建設するためのパイロットだというのである。
今、ふりかえって見ると、当時の委員の胸中には、この意気込みがみなぎっていた。「報道」を拠点としてよい村をつくってやろうという夢がふくらんでいた。このことを物語る一つの例は、委員会の論議である。午後からの会議が夕飯を食って、九時、十時に及ぶことがたびたびあった。革新のチャンピオン金井元吉君などもメンバーで保守革新の間に仲々調子の高い論争が展開されたものである。
「報道」は役場の御用新聞ではないという気がいもあったから、委員会の村政批判は辛らつであった。村長や村議に対しても遠慮がなかった。それが紙面をにぎわした。「若し村で金を出さぬといったら俺たちで出し合ってでも発行していこう。」と意気巻いていたのは今の町長関根茂章君であった。
委員会に呼応して、村内にも言論縦横の火の手が上がった。第三号では、中島年治君が二十五年度予算を批判して「報道が出来たおかげで、村民一般がはじめて、村予算の全貌に接することが出来た。委員会の努力の結果である。」と前書きし、さてといって「この予算を前年度と比較すると相変わらずどこにも目玉のない平板予算である。村長は重点主義を取ったというが建設的意図が不充分である。これでは何とか村を興そうとしている青年たちにも熱はあれど足場がない。」といって、噛みついている。議論の当否は別として、当時の若者には、こんな気風が横溢(おういつ)していたのである。「報道」を中心に村のヤングパワーが結集していたというわけである。
こんな話をも少し続けてみよう。稍々後になるが、闘病生活から帰ってきた関根昭二君の論説が長い間「論壇」をにぎわした。初期のものを上げると「予算審議を傍聴して」「選挙を顧みて」「転換期に立った高崎村政」などがあり、いづれも、議会や村政に対する鋭い批判である。そしてこれを受けて立ったのが議会の論客山下欽治、高橋亥一、出野好の諸氏で、若い関根君と真剣にわたり合って、堂々の論陣を張った。「報道」の「論壇」は正に百家争鳴、議会の花盛りであった。
然し「報道」紙面は右のような論戦ばかりで飾られたわけではなかった。若い層では、今の農協組合長長島実君の「農業経営と煙草栽培」現町議山田巌君の「酪農問題」など、農業経営の将来の展望とその対策などが掲載されているし、教育・文化面では教育の老大家根岸良治氏、女流評論家の根岸き氏などが健筆をふるっている。村長高崎達蔵氏、農協長侭田雪光氏なども殆んど毎月筆をとって村政の報道と解説につとめた。
この調子で書いていては切りがないから、この辺でやめることにするが、今まで言ったことでも分かるように「報道」は若い人たちが中心となって、よい村づくりの推進役をつとめようという真剣な意気込みの下でつくられていた。そして、当時の壮年及至老年層はそのしたむきな気持ちをまともに受けとめて、青年層と一緒になって、村政を論じた。今のような、新旧世帯の断絶はなかったのである。
私が挨拶に書いたような報道委員会の使命と目的は達成されたかどうか。私としてはその功罪は論じない。言えば独断になる。只一つ、その当時の若者が「報道」を舞台に、青春の情熱をたぎらせたその連中が、今、町政の枢機にたずさわって町を動かしている。これを言えば「報道」の評価も自ら決定されるであろう。