第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政
二百号の発刊に際して
嵐山町長 関根茂章
報道が遂に二百号を出すにいたったことを知り、全く感慨はかり知れないものがある。
報道二十年の歴史は、そのままこの我が嵐山町の歴史であり、幾多の人々が、それぞれの時期に於て孜(し)々として努力された軌跡の集積である。
今日、県内市町村の報道は、殆んど官報的な「おしらせ」の形式内容に変わってしまった。その中にあって、我が町の報道は、新聞形式をとり、町民の広場としての役割を演じていることは、まことによろこばしいことであり意義深い。
G・H・Qの強い管理統制下に、燃えるような情熱と、言論の自由と、政治的、精神的独立を強く心に期して第一号を住民に送った。この創業の精神が、強弱はあったにしろ、この二十年間、低流として報道を支えて来た。
報道の使命は、客観的、実証的手法と、冷厳な批判精神をもて、権威に屈せず、俗におぼれず毅然とした言論活動にある。
関係された諸志に深く敬意を表すると共に今后の絶ゆみない御精進をお願いする次第である。
報道二〇〇号発刊について
山岸宗朋
報道は嵐山町の特殊な性質をもった機関となって町民全体の心の内にしみこんで、報道を読むことが我々はどのくらいたのしみであるかしれない。
いつの間にか二〇〇号となった拾年一昔と言うが、拾数年も継続して来たことはよろこびにたえません。
然しながら此の報道が継続発刊されて来たことには、裏方として並々ならぬ努力をはらわれて来た方々がおります。私は真先に此の方々に心から感謝を申し上げます。過去を思い起こしてみるとづいぶん色々な事がありました。
ある時は夜を徹して編集のことで議論したこともありました。ある時は報道がきびしすぎると議論の基になって議員から強く批判を受けたこともありました。或いは原稿を委員会に提出しても報道にのらなかったと言はれ、強いおこゞとを申し込まれたこともありました。町の出来事が正しく報道を通して町全体の家庭に配られて来たので味力が町民にもたれ、たのしまれて来たことゝ思われます。
今後とも嵐山町の発展のために発刊が永遠に続きますことを祈念申し上げまして二〇〇号発刊記念の挨拶といたします。
挨拶
報道委員長 関根昭二
『嵐山町報道』200号 1969年(昭和44)12月10日
「報道」は今号を以て二百号に達した。昭和二十五年(1950)の四月に第一号を発行して以来、約二十年の幾月が流れたわけである。第一号の当時から、休み休みではあったがこの仕事にたづさはってきた者として感慨の無量なるものを覚える。二十年の私は若かった。今、第一号から第十三号までの自分の書いたものを読み返してみると、どうしてこんなことを書いたのかなあと恥しい思いをするものもあるし、よくこういう文章が書けたものだと苦い感傷を甦らせるものもある。
ただ、今も昔も変らざるものは「報道」に対する情熱である。私は誇りと自信をもって、この仕事に取り組んできたつもりである。県の広報課では嵐山町の「報道」のような行き方を非常にきらっている。この「報道」にように、町政の批判的記事を書いたり、議員の議会発言を掲載したりすることは、好ましくないというのが県の考え方である。いはば「お知らせ」をするのが町村の「広報」の在り方だというのである。
「報道」は終始、そのような在り方に対して、県下で唯一つ、独特な紙面を以て今日まで続けてきた。従って、県の「広報コンクール」などで表彰されたことは未だに一度もない。然し、私たちはそれを残念だと思った事はない。「報道」がこれから先、どれだけ長く続けられるかわからないが、少くとも町の政治に住民の声が反映されるような紙面でありたいと念じている。
町民皆さんの今日までの御声援と協力を心から感謝すると共に、今後の御叱正をお願いする。