第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政
「報道」より見た十年の流れ
「報道」は昭和二十五年(1950)四月二十日に第一号を発行したが、合併した三十年(1955)の四月には五十六号を発行するに至った。その後十年、新村菅谷村と共に歩んできたこの十年間を「報道」を通じてふりかえってみようと思う。十年一昔というが、この十年の流れの中でさまざまな人たちが浮かんでは消えていった。そうしてさまざまな出来事が生起され、かずかずの建築物が遺されていった。過去から未来へ今後の十年間にこの「報道」はどのような記録を綴るであろうか
◆昭和三十年(1955)
三月二十七日、菅谷、七郷両村の議会は、廃村と新村建設の決議を行い、四月十五日、新村名を菅谷村としてその第一歩を踏み出した。
面積 約三十平方粁(キロ)
世帯数 一五八二
人口 九三九三
村長職務執行者 高崎達蔵
参与 青木義夫(七郷村長) 小林博治(菅谷村助役)
収入役代理 安藤安雄(七郷村収入役)
七郷支所長 井上文雄(七郷村助役)また当時の村会議員は三十六名で菅谷地区二十二名、七郷地区十四名であった。七郷地区の議長であった馬場覚嗣氏が新議長に、菅谷地区の議長であった杉田寅造氏が副議長となった。最高齢者は馬場覚嗣氏で六十六才、最若年者は三十二才の小林久氏である。
四月十五日には菅谷小学校で祝賀会が行はれたが、これに先立ち午前八時から役場職員に任命辞令の交付があり、続いて村議会が開かれ上提された四十案件を一気に可決して、十一時から祝賀会に移った。
川越農高菅谷分校の第一回の入学式が四月十一日に行はれ三八名が入学したが、その後、時勢には勝てず十年を待たずして自然廃校となってしまった。
四月二十四日には県会議員の選挙が行はれ、本村平沢から立候補した山田薫氏は本村で二五〇七票を得たが落選した。
合併後初の村長選挙は五月十四日行はれたが高崎達蔵氏が無投票で当選し初代村長に就任した。
六月の定例村会において三十年度予算が審議されたが、総額二千三百三十九万円であった。また助役には青木義夫、小林博治の両氏が、収入役には安藤安雄氏がそれぞれ決った。
菅谷中学校校舎の落成式が八月二十二日の行はれた。
大川建築士の設計で勝村建設が請負い、工費は一千五百十二万、校舎三棟四八八坪である。校地は七〇二六坪、運動場の広さ三七九五坪である。
八月に新村名の募集を行った結果、いろいろな名が寄せられたが、そのうち主なものを挙げてみる。
城山村、菅郷村、嵐山村、七菅村、谷郷村
議会は新村名について協議したが、結論は得られなかった。
十月には村議会議員と教育委員の選挙が行はれたが教育委員は無投票で決まった。議員選挙は小選挙区制で菅谷地区十二名、七郷地区十名の定員であった。臨時村会で議長に栗原侃一氏、副議長に山下欽治氏が決った。◆昭和三十一年(1956)
埼玉銀行菅谷支店は昭和二十三年(1948)に開店したが三十年(1955)十二月三十一日で閉店した。
第一回の成人式が菅小で行はれ一九四名の成人者中一二四名が出席した。
三月の村会で助役定数条例が改正になり助役は一名となった。このため、青木、小林の両助役は三月三十一日で辞任した。その後三ヶ月間の空白の後、小林博治氏が助役に同意された。
四月三十日に晩霜により桑園二百三十町歩が被害をうけた。このため村では四十万円の対策費を支出した。
合併後の人件費を節約するため特別退職条例ができ八名の退職申出があった。
小川信用金庫は埼銀のあとに出張所を設け六月十五日から営業を開始した。
高崎村長は八月二日午前零時自宅への帰途、東昌寺坂下の蜻蛉橋下に転落、脳震とうを起して急逝した。五十九才であった。村では小林助役を葬儀委員長にして四日志賀宝城寺で村葬を執行した。
村長死去にともなう村長選挙は九月九日行はれたが、前助役の青木義夫氏が議長の栗原侃一氏、議員の大野幸次郎氏を破って当選した。青木村長は青少年の教化育成と婦人団体の向上発展、次三男の職業補導に重点をおく、滞納整理は二百万やりたいと述べた。
滞納額は村税四百五十八万、国保関係三百七十九万で、合計八百三十七万であった。
村では滞納白書を発表して滞納整理に決意をみせたが成果は挙がらなかった。
九月の定例会で議長に山下欽治氏が選ばれた。また、十月一日から新教育委員会法が施行されることになり、このため教育委員の同意を求める議案が提出されたが無記名投票の結果、賛成八、反対十で否決された。
村長提出の議案が否決されたのは初めてである。教育委員は十月二十七日の臨時村議会で漸く決った。委員長は根岸忠与氏、教育長は助役の兼任となった。
合併後初の両地区合同の村民体育大会が菅小で開かれ菅谷チームが優勝した。
第一回の比企郡中部一周駅伝競走が十二月九日に行はれ十九チームが参加した。走行は四十六キロである。
菅谷の側溝工事は十二月末に完成した。延八百五十米で、工費八十万。◆昭和三十二年(1957)
前年三月に着工し七中校舎は二月に落成した。敷地は三九二九坪、運動場は一五一七坪、校舎四三七坪、総予算額一七二一万。
嵐山遠山道路完成、延長七八八米、幅員三・七米である。
菅中は創立十周年に校旗を作り、校歌を定めた。作詞は安藤専一氏で安岡正篤氏が監修した。
四月から教育長に安藤義雄氏がなったが名前だけで実際の仕事は助役が代行した。
九月十九日、皇太子殿下は県立貢納研修所へお出でになった。
武蔵嵐山は週刊読売主催の新日本百景で三十五位に入選した。
十月の臨時村会で工場誘致条例が成立した。
松永東文部大臣は十二月七日菅小で講演した。
菅谷青年団の団歌が決定した。作詞は根岸進氏(根岸出身)である。◆昭和三十三年(1958)
一月 鎌形小学校の給食室が完成した。建坪十二・三八坪、工費四十万八千円。村内で初めての給食開始となった。
二月 菅中増築校舎落成。総予算五百五十万円、建坪百二十四坪。
NHKのど自慢県大会で笠原活男氏は歌謡曲の部一位となり関東甲信越大会に出場した。
五月 教育委員が改選され、田中昇氏が委員長に、金子慶助氏が教育長に選ばれた。
旧鎌倉街道記念碑の建設が行はれ、その除幕式が四月二十日にあった。
異常渇水のため水稲の植付が不能になったものは百六十町歩に及び、村はその対策費として百十万円を計上した。
興農研修所の夏季大学に作家の尾崎士郎氏が「文芸と人生」と題して講演した。
平沢の水道工事は十月に完成、三三戸に給水することになった。◆昭和三十四年(1959)
二月二十二日自民党菅谷支部が結成され、支部長に内田幾喜氏が選任された。
皇太子殿下御結婚祝賀式が四月十日菅中講堂で行はれ一四一名が出席、盛大な祝賀式を行った。
四月の臨時村会で青木高氏が議長に選ばれた。
県会議員の選挙があり、本村平沢の山田薫氏が立候補し、本村から二〇九五票を得たが落選した。
「報道」は六月十日発行号をもって百号になったので、七月十一日菅中講堂で祝賀式を開き、「報道」百号保存者を表彰した。
十月、全村一区による村会議員選挙が行はれ二十九日の初議会で内田幾喜氏が議長に選ばれた。
長島崇氏はNHK「青年の主張」で県一位となり、関東甲信越大会では二位となった。◆昭和三十五年(1960)
七郷農協の有線放送は四月に通話を開始した。総経費五一一万円。
四月一日から七郷支所を廃止した。
九月四日の村長選挙では青木義夫村長が無投票に近い状態で当選した。
作家の今東光氏は大蔵安養寺の住職として八月二十五日入山式を行った。また、この模様は日本テレビで放送された。夜は七時過ぎから約一時間にわたり、菅中講堂で講演した。
役場職員組合が結成され、執行委員長に中島立男氏がなった。組合員数は二十五名である。
十月の臨時村会で青木高氏が議長に就任した(六代目)。
一月に新庁舎建設委員会が結成され、五月に敷地が決定した新庁舎は、十二月二十五日に落成した。総工費は本館一〇二九万円、附帯工事百三十万円である。◆昭和三十六年(1961)
新庁舎落成式は二月二十五日菅中講堂で行はれた。将軍沢と鎌形地区に建設予定の嵐山カントリークラブの地鎮祭が三月九日に行はれ、ゴルフ場建設が本格化した。
五月、平沢に栄建設が分譲地を造り売り出した。これをきっかけに各所に団地が造成され、団地ブームが生れた。地価の値上りはこれから始まった。
内閣官房副長官細谷喜一氏は五月十二日「茶の湯と人生」と題して講演した。
小川信用金庫の菅谷出張所は六月十五日支店に昇格した。
収入役安藤安雄氏は八月一ぱいで辞任した。
東武バス武蔵嵐山線が九月十六日開通した。
明星食品嵐山工場は十月から操業を開始した。
八月の臨時村会は農業高校の存廃問題、村有土地を明星食品、根岸電材等に売却する問題、向山光学問題などをめぐって論議が沸騰した。
十月臨時村会で瀬山修治氏が議長に就任した(七代目)。
十一月 嵐山ゴルフ場の竣工式。
十二月 役場職員組合は給与引上げで村長と団交したが要求が入れられないので闘争態勢をとった。このため廿四日に予定されていた比企中部一周駅伝競走は中止になった。
村長は二十四日午後、組合側の要求を入れることを即答したので解決したが、村長は「課長制をとる考えである」と述べ、中島執行委員長は「長い間の不満の爆発である」と組合側の立場を訴えた。◆昭和三十七年(1962)
新村建設五ヶ年計画(三十五年〜三十九年まで)を立案。
二月 大映の「情熱の詩人啄木」の映画ロケが鎌形小学校であった。
四月 役場事務機構を改革し、新たに課制を設け四課一室となった。
庁用自動車を購入した。
消防団長に松本晴次氏が選ばれた。
小川町、玉川村と三町村の連絡の焦点である谷川橋は五月落成した。工費二四〇万円。
六月定例村会で小林博治氏が助役に再任された。
十月 議会議長に青木高氏就任(八代目)。
鎌形小学校創立七十周年記念祝賀会は十一月三日、同校校庭で行はれた。
収入役に関口高吉氏が選任された。◆昭和三十八年(1963)
七中技術科教室完成、建坪四〇坪、物置三坪、テラス一〇坪、工費二五五万円。
村史編纂委員会発足。
嵐山駅−古里間バス開通。
将軍沢ダムの建設計画があり、三年計画で調査することが明かになった。
小川信用金庫菅谷支店が新築完成し、四月二日披露の祝賀式が行はれた。
町制施行準備委員会は八月三十日菅小で開かれ、会長に青木高議長、副会長に市川武市氏を決めた。
十月、村会議員選挙があり十二名の新人が当選した。
議長に山下欽治氏が就任した(九代目)。◆昭和三十九年(1964)
「報道」百五十号発行記念祝賀会は二月十一日、信金菅谷支店の二階で開かれ、保存者の六名を表彰した。
七小中給食室完成、二月十日給食開始、工費二八六万円、給水タンク二〇万で総計四一九万円である。
菅谷中央簡易水道完成。日本水道が二千六万円で落札して工事をしたもの。
太郎丸の精進橋は五月完成した。
菅谷幼稚園は四月開園した。根岸忠与氏が園長で定員八十名。
小林助役辞任、五月末日で十七年にわたる収入役と助役の生活から退いた。
九月六日に行はれた村長選挙は新人関根茂章氏が前議長の青木高氏を圧倒的に引き離して三代目の村長に就任した。関根村長は三十九才の青年であり「愛と道義の行政」を基調として、理想の田園都市を建設する基本方針を述べた。
九月の定例村議会で議長に奥平武治氏が選ばれた(十代目)。
教育長金子慶助氏は十月二十六日急逝した。教育委員長関根昭二氏を葬儀委員長として教育委員会葬を二八日に七小講堂で執行した。
社会教育主事補の井上文雄氏は十一月十八日死去、
十二月一日の教育委員会で教育長に奥住清氏を選任した。◆昭和四十年(1965)
村史編纂責任者に小林博治氏を決定した。
「菅谷村報道」159号 1965年5月10日
農業委員会長に関根村長が選ばれた。
三月定例会で助役に七中校長の安藤専一氏が議会の同意を得て決定した。
三月二十五日、菅中体育館が完成した。
四月十五日、体育館落成及び合併十周年式典が行はれた。