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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第3節:昭和(町制施行後)

嵐山町

議会在職当時の思い出

山岸宗朋 

 1953年(昭和28)3月7日〜1955年(昭和30)4月15日
 1955年(昭和30)4月15日〜1955年(昭和30)10月15日
 1963年(昭和38)10月16日〜1967年(昭和42)10月15日
 1967年(昭和42)10月16日〜1971年(昭和46)10月15日
 1971年(昭和46)10月16日〜1975年(昭和50)10月15日
 1975年(昭和50)10月16日〜1979年(昭和54)10月15日

 議員在職中のことを現在考えてみると、長い期間つとめて来たが、目立った活動をしたことが思い出となるような事件はまことに少ないことに気がついたものである。五期二〇年間在任中は熱心に、他の議員に負けまいと自ら自負してやって来たと思っていたのに、現在に至って思い出せない事に今更強く反省しているものであります。一期間(四年間)に一件位はと考えたところ、一年議員の当時のことであった(旧菅谷村の時代)。当時大字菅谷に六名の議員が選出され米山永助氏以外は全員が新人であった。皆良く議員として勉強もし、また六名が良く会合し協議しあった。意志統一して議場にのぞんだ。したがって、議会の原動力となった。現在の商工会、観光協会も菅谷の議員が議員提案により議決され出来たものである。初代商工会長は根岸義次氏であった。

 当時町村合併が行政指導されたが、当時の村長は合併に意欲はなかった。各町村長は各々思惑を持っていて、合併のむずかしさをつくづく味わった。行政指導は旧菅谷部会、菅谷村、七郷村、宮前村、福田村の四ヶ村合併が理想とされた。議会に町村合併促進特別委員会を設置し強力に合併を推進した結果、旧七郷村と合併の話し合いができた。

 現在の中学校の敷地決定もむずかしかったが菅谷の議員の協力で決まったのであった。当時一年生議員は青木 高、根岸巷作、山岸宗朋、福島秀雄、中島勝哉の五名であった。

 駅東区画整理事業のことについて、嵐山町も都市計画の指定を受けることを議会で決定した。昭和四〇年代に区画整理を取上げた。
 定例議会において町長と論戦を交した。強力に区画整理を推進した、都市計画の指定は区画整理実施が目的であるのに何んのために指定を受けたのかと。町長は国土法に基づく一筆調査を実施したいとの答弁である。区画整理と一筆調査とで、かみ合わない論戦に終わってしまった。申訳的に区画整理調査費を計上したが毎年不用額としたのであった。一筆調査を実施したので区画整理は棚上げの形になってしまった。やむなくその後において議員提案により区画整理を実施すべき議案が議会満場一致可決決定したのであったが、当局はなかなか活動を始めなかった。その後、当局も重い腰を上げて啓蒙を始め、ようやく五七年(1982)に組合事業による区画整理事業組合が発足した。一筆調査か区画整理かの功罪は知る人は何んと評価するであろうか。

 菅谷小学校増築にからんで、区域外就学が問題となった。二七〇名余の児童、生徒が東松山市、滑川村から小中学校に越境就学していた。当時小中学校の一人当たりの平均町費は小学校で二十数万円、中学校は四十数万円の町費負担であった(教育委員会事務局調査)。多額の町費負担であるにもかかわらず一人一万円の委託料を取って教育委員会の承認で就学を許可していたのであった。区域外就学児童生徒の受入は議会の議決事項であるが嵐山町は長い間、議会が見過して来たのであった。
 定例議会において私は、地方自治法には区域外就学は議会議決事項である、何故教育委員会相互の協議で就学を許可しているのかと質問した。
 阿部教育長は法に違反して取扱ったことを認めた。次は町長に質問である。区域外就学の委託事務は議会の議決事項である事件を長い間、地方自治法に違反して来たことは議会軽視も甚しい、加えて多額の町費を負担しているのに一万円位の安い金で就学許可してきたことを町民に対し何んと申訳するのか、町税の無駄使いも甚しいことである、嵐山町において負担している経費同額を委託料として相手の自治体より納入させるべきであると質問した。
 町長は現在まで見過して申訳ない、来たる定例議会迄に東松山市長、滑川村長と協議して正常にもどすとの答弁でまがりなりにも決着した。
 その後東松山市、滑川村の児童生徒の父兄から従来どおりの形で嵐山町の小中学校で就学させよと各教育委員会に強い要求が再三出された。各新聞、テレビ等で再三報道されたのが、この時であった。
 各関係団体は現在就学中の児童生徒は卒業する迄とし、新たな就学は各自治体の学校に入れることで決着した。
 決着したかに見えたがまた問題が発生した。東松山市の父兄から訴訟が提起された。また各新聞は一斉に報道を始めた。問題が一変したこの時点であった、嵐山町長は議員各々の説得を始めた。町長の態度に私は大いに怒りを感じ奮起した。町のため奮然と立ちあがろうと決意し町長に絶縁を申し入れた。町民にこの実態を知らせて町民大衆が決起することを考えた。愛町の精神に燃える人を集め愛町同志会を発足し組織を作った。
 “町長急変し町税無駄使いするか” 町民の力でこれを阻止しようと趣意書を急ぎ一万枚印刷、町長、議長に一枚ずつ渡し町民全員に配布することを申し入れ町民が実態を知り立ちあがる迄何回でも繰り返すと言明した。一大社会問題を巻き起こそうと重ねて決意したのであった。
 議長は町長及び各委員長諸君と協議を重ねた結果、幸か不幸か印刷物は町民に配布せずに終った。その後様々な問題を起こしながら逐次解決方向に向かい区域外就学の問題は終わりをつげた。現在一万枚の印刷物は我が家の片隅に保管され続けている。
 その当時の決意は、現在思い出の大きなものである。よくもあのような奮気が生じたものだと。
 つるぎの下は地ごくなり身を捨ててこそ
   うかぶせもある
 義を見てせざるはゆうなきなり

『嵐山町議会史』「第四章 思い出を顧みて」嵐山町議会史編さん委員会, 1987年(昭和62)3月
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