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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第2節:昭和(町制施行前)

菅谷村

論壇

誘致条例を廃止せよ

三十二年(1957)十月の臨時村議会は村内に工場事業所を誘致して村勢の発展を図る目的のもとに、「工場誘致条例」を制定した。この条例は、投下固定資産総額五百万円以上で常時使用する従業員数三〇人以上の工場に対して、その工場の村民税、固定資産税の合算額の範囲内で奨励金を交付するというものである。
奨励金の交付ということは税金を免除するということであって、その期間は三年から五年となっている。この条例のできた当時は、村でもどんな工場でも来てくれれば、農家の次三男が勤められて農家経済が楽になり、工場から税金があがってくるので財政が豊かになるという考え方であった。
それから今日までの約四年間、この条例は全くの空文であった。村当局は条例をつくったままで、これを活用する積極さに欠けていたのである。図(はか)らずも今度明星食品をきっかけとして幾つかの工場が建設されることになったが、これとても先方からの申込みを受け入れただけのことで、誘致に努力した結果ではない。吾々は先ずこの条例を死文化して今日まで来た村当局の怠慢を厳しく責めなければならないであろう。工場を受け容れる態勢もできていなければ、工場誘致の専門家も置かず、立地条件や会社の研究もしないで、「何かいい工場は来ないだろうか」程度のことでは何の効果もないことは明かである。
茨城県岩井町【現・坂東市】の吉原町長は、二億円の工場誘致予算を町議会に要求して、一ヶ月で百三十万平方メートルの土地を買収し工場誘致のための敷地を確保し、「聯合紙器」、「日本タイプライター」など一流の会社を含めて二十七の会社の誘致に成功した。しかも大企業の誘致第一号の収入は教育、二号は産業改革、三号は道路、四号は消防・衛生、五号は減税に当て、中小企業からの分は役場の職員のベース・アップをやる(「週刊朝日」七月二十一日号所収)という話を聞くと、その政治性と実現のための熱意とには全く敬服させられるものがある。
政治には政策とこれを具現化する力とがなければならぬ。遺憾ながら吾々の村には都市計画も、道路計画も、工場指定計画もないのである。政治に携わる人は十年後にこの村がどのように変貌するかの未来図ができていなければならないであろう。
今度相次いで出来る工場が誘致条例の適用を受けるかどうか、議会でもまだ論議されていないようであるが、期せずして工場が進出してきた今日の現状からみれば、すでに誘致条例の恩恵を与える必要はないようである。投下資本の五百万円以上は土地代金だけでもそれを上廻ってしまうし、従業員三十人以上などというのは随所に見られる町工場のようなものでしかない。今日では誘致条例がなくても、立地条件さえよければ工場はどしどし進出してくるし、職があっても人が足りない実状からして、条例制定当時とは社会情勢も、経済情勢も大きな変化を来している。誘致条例はこれを速やかに廃止して、工場からの税収入を図り、村の教育や道路やその他の施設に力を尽くすことの方が賢明であろう。

『菅谷村報道』125号「論壇」 1961年(昭和36)8月15日
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