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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第2節:昭和(町制施行前)

旧菅谷村・七郷村

村の系譜

菅谷村の成立
——各字の歴史——

「住民負担の軽減、住民福祉の積極的増進」有難い御利益で蒙を啓かれているが、住民の表情はあまり動かない。にも拘らず町村合併の掛声は海上の波浪にも似て表面だけではいやに高い。「己むを得ないだらう」の程度、わが菅谷村も終に所謂弱小町村から適正規模の町村に改組される時が来るかも知れぬ。それにつけても思ふことは、現在の菅谷村の形態は何時出来たか、村の古記録を辿れば概ね次のようである。現在の各字が統合されたのが明治十七年。統合に従つて聯合戸長役場の創設があり、更に明治二十一、二年の町村制の改正により、川島が志賀に加つて現在の村の境域が出来たようである。

○菅谷村
名称 往昔は須賀谷と書く
所属 明治五年、六大区四小区
明治十二年、比企郡横見郡役所所管。
明治十七年、菅谷村、志賀村、平沢村、遠山村、千手堂村、鎌形村、大蔵村、根岸村、将軍沢村の九ヶ村を以つて菅谷村聯合戸長役場を置いた。
分合、寛文年中に今の志賀村が分村した。
管轄、治承の頃畠山重忠の領地であつたが、重忠滅亡後、岩松遠江守が、畠山の名跡をついで、その子孫が支配した。その後北条、足利の領知を経て徳川時代天正十八年には岡部太郎作の采地となり明和九年幕府直轄となり代官飯塚伊兵衛の支配を受け、更に安永年間に猪子左太夫の知行所となつた。
明治二年韮山県、同四年入間県、同十二年横見郡役所の管轄となる。

○志賀村
名称 往昔は四ヶ村と称した。
所属 菅谷村に同じ、(以下八ヶ村この項略)
分合、菅谷村より分村して一ヶ村となる。
管轄、徳川時代、岡部氏、飯塚氏の支配は菅谷に同じ。安永九年山形城主秋元但馬守、天保十三年川越藩主松平大和守の領地となる。
明治四年前橋県、五年入間県、六年熊谷県、九年埼玉県の所轄となる。

○平沢村
名称 改称なし
所属 古へは松山領玉川郷大河原の庄に属した。
分合、なし
管轄 徳川時代、諸星宗左衛門、元年十一年、金田周防守、天保十四年関安右衛門、ついで川越城主の支配となる。
明治四年前橋県、五年入間県、六年熊谷県、九年埼玉県の管轄に属す。

○遠山村
名称 改称なし
所属 松山領に属し大河原の庄と称した。
管轄 天正十八年より徳川氏直轄、代官の支配に属したが天保十四年川越城主の采地となり、明治二年前橋藩、四年前橋県、五年入間県、六年熊谷県、九年埼玉県。

○千手堂村
名称 往昔千手観音堂あるを以つてこれを村名にしたといふ。
所属 松山領玉川郷と称した。
管轄、初め徳川氏の直轄で大体代官によつて支配されたが、享保八年には大岡越前守の領知となつたといふ。後御三卿清水家に移つたが又直轄にかはり天保十四年に川越領主松平氏に属した。明治四年前橋県、五年入間県、六年熊谷県、九年埼玉県。

○鎌形村
名称 俚碑に、本村は鎌倉八幡を遷したので、鎌形と称すと伝える。
所属 松山領に属し、鎌形郷大河原の庄と唱ふ。
分合、もと一村であつたが寛文の頃分れて内郷。植木山の二村となり、明治七年又一村となる。
管轄、松山城滅亡後、徳川氏に属し代官の支配となる。天保十四年川越城主松平氏、明治二年前橋藩、四年前橋県、五年入間県、六年熊谷県、九年埼玉県。

○大蔵村
名称 往昔は大倉と書く。
所属 玉川領大蔵郷。
分合 もと一村であつたが元禄年間、御料所、知行所に分れ、寛政八年再び一村となる。
管轄、徳川初期から代官、旗本、清水家等の支配に属したが天保年間川越城主に移る。以下前記各村に同じ。

○根岸村
名称 改称なし
所属 玉川領大蔵郷に属す。
管轄、天保年間川越城主の支配となり、明治以降は前記諸村に同じ。

○將軍沢村
名称 利仁将軍の霊を祀った大宮権現の社があるので将軍沢といふ。
所属 玉川領で大蔵郷に属す。
管轄、上野国世良田の長楽寺文書によれば将軍沢郷は上州世良田氏の領知であつたことが記されている。徳川時代にいたり、天保年間に川越松平氏の采地となり、明治以後の所管関係は他と同じである。

『菅谷村報道』47号 1954年(昭和29)6月20日
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