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第6巻【近世・近代・現代編】- 第2章:政治・行政

第2節:昭和(町制施行前)

旧菅谷村・七郷村

比企町村行脚 七郷村の巻(10) 現役場の陣容(不二雲生)

本村に於ける自治は地勢上関係か、それとも伯仲せる人物の対抗か、任期半にして職を去るものが頗る多い。町村制が施かれて以来、初雁鳴彦氏五年を最長に久保三源次、栗原慶次郎、船戸楫夫氏の一期を最長するに過ぎない。今町村制施行以来の村長名を列記せば、

初代 田幡宗順 明治二十二年(1889)五月 在任一年二ヶ月
二代 安藤貞良 同二十三年(1890)八月 在任三年九ヶ月
三代 藤野文八 同二十七年(1894)四月 在任一年二ヶ月
四代 船戸熊吉 同二十八年(1895)七月 在任一年四ヶ月
五代 田中浪吉 同二十九年(1896)十月 在任二年十ヶ月
六代 船戸熊吉 同三十二年(1899)七月 在任三ヶ月
七代 中村清介 同三十二年(1899)10月 座員三年六ヶ月
八代 久保三源次 同三十六年(1903)四月 在任四ヶ年
九代 井上萬吉 同四十年(1907)五月 在任一ヶ年
十代 道祖土(さいど)半造(職務代理) 同四十一年(1908)四月 在任十ヶ月
十一代 藤野文八 同四十二年(1909)一月 在任 一ヶ年
十二代 田畑馬作 同四十三年(1910)五月 在任一ヶ年
十三代 田幡宗順 同四十四年(1911)五月 在任十ヶ月
十四代 久保三源次 同四十五年(1912)三月 在任三年十ヶ月
十五代 栗原慶次郎 大正五年(1916)三月 在任満期【四ヶ年】
十六代 舩戸楫夫 同九年(1920)一月 在任満期
十七代 初雁鳴彦 同十三年(1924)二月 在任五年
十八代 田中長亮 昭和四年(1929)三月 在任八ヶ月
十九代 市川藤三郎 同四年(1929)十月 在任九ヶ月
二十代 栗原侃一 同五年(1930)十月

以上で村長の平均年令は二年八ヶ月に過ぎないが、といふて同村が政党的に立て分れて対抗したといふでもない。こうした頻々として頭首は変ったが、地方自治は却って互に注視した結果か、自治にみるべきものが遺されてゐるのは同村の為に慶賀すべきである。
現在に於ける同村役場は庁舎甚だ狭小にして自力更生の指定村とも思はれぬ程の質素にやってのけてゐるところに栗原村長の面目が躍如として現れてゐるのかしら。現役場の陣容は

村長 栗原侃一 就任 昭和五年(1930)十月 事務分担 文書収受、庶務、会議、学務、社寺、消防、社会
助役 青木五三郎 就任 昭和五年十一月 事務分担 地籍、土木
収入役 藤野胸義 就任 大正十年(1921)八月 分担 会計
書記 藤野菊次郎 就任 大正六年(1917)七月 分担 戸籍、兵事
同 栗原喜十郎 就任 昭和二年(1927)三月 分担 税務 会議書記
同 安藤文三 就任 昭和八年(1933)四月 分担 勧業、統計、衛生

外に村技術員があり、信用組合があるが兎に角一般町村に対比して少数を以て繁多の大なる事務を分担してゐるといふことがいへる。栗原村長の如きは信念に燃えること強く、非常農村の救済には好恰の逸材で過去に於て或は村長とし或は団体の代表として困憊(こんぱい)の極にある農村救済に多忙の身をさいて奮闘するは人の知るところである。青木助役は温厚篤実にして懇切講和性を豊富に持ち、一面を世話すきで名実共に助役としての適材であり女房役として申し分なし。藤野収入役は頭脳綿密にして会計事務に当(あた)る逸材だある。性潔粉碎にして自己の所信は絶対貫徹するの気宇、勤倹貯蓄主義で酒席に列するは嫌ふところで、珠算は最も得意とする所にして、栗原書記と共に名珠算家の称がある。その他の書記何れも適材適所で大に手腕を発揮して、更生村としての指定を遺漏なく処理しつつある。

『埼玉日報』1934年1月28日

比企町村行脚 七郷村の巻(11) 活動の人と奇特の人(不二雲生)

本村に於て活動の中心人物は何んといっても村長【1930年10月〜1934年10月〜1936年2月〜1940年2月】栗原侃一氏か。氏はすでに村会議員として当選すること三回【1925年4月〜1929年4月〜1933年4月〜1937年4月〜1942年5月〜1946年4月】、助役としては田中【田中長亮】、市川【市川藤三郎】両村長を補佐し特に産業の改発、教育の刷新に努力し、昭和五年村長に就任するや、氏の敏腕は愈々現れ、この非常不況時に際会しても、村民多数の嚮(むか)ふところを対処せしめて村治に何等の支障を来さしめず今や全村更生の緒につき、綽々(しゃくしゃく)として余裕ある自治振りを示して名宰相の名辞をうけてゐるのも心うれしい。
助役青木五三郎氏も曩(さき)に収入役【1910年5月〜1912年6月】として多年本年行政につくし今又助役【1930年11月〜1934年11月】として就任するや温健にして明敏なる手腕と力量とを以て村長を村長を補佐し、産業組合長として本村経済立て直しに努力しつつある。
収入役【1921年8月〜1937年8月】藤野胸義氏は質実剛健にして金銭の出納には確実を旨とし而も明敏なる手腕を有し経済上幾多難関あった本村を更生せしめつゝある。
書記藤野菊次郎氏は温順にして快活特に戸籍事務に精しく数十年の体験は全く同村に於ける生字引きである。
技術員田畑順一氏は口の人、実行の人として特に選ばれて農会技術員に就任し、以来農産物の販売統制を手始に七郷村自力更生の道を講じ、一面青年団長として青年指導、啓発にも努めてゐる。
騎兵大尉安藤巳代吉氏は日本精神の指導者として終始せらるゝ村民尊敬の的、氏は明治四十年(1907)軍隊生活に入ってから二十有余年間一日の欠勤もなく奉公の誠を致し、帰郷後は分会長【在郷軍人分会長】、連合分会顧問として活躍し、尚又青年教育には最も興味をもたれ未だ青年訓練所の設置を見ざる大正十五年(1926)より本村公民学校生徒の体操、殊(こと)に軍事教練を指導し、爾来(じらい)今日迄名誉指導員として青年教育に従事せられ、本村青年訓練の名声の高き、氏の力にまつ処実に多大である。
分会長【在郷軍人分会長】田中正光氏はさきに農会技術員として貢献し、尚分会長、青年訓練所上席指導員として範を垂れてゐる。
製糸教婦安藤■■氏は大字古里に生れ幼より学を好み技芸に長じ、小学校を卒へて武州製糸工場に入り、専心繰糸の研究に従事し、指導員の位置にあって工場の為に尽すこと大、先般本村小学校の増築に際し金五拾円を母校の為に寄付した尊敬すべき婦人である。
大塚さだ氏も大字古里に生れ、幼にして上京、とある家に女中として仕へ忠実に主家の為につくし、此の程貯への中より金弐拾余円をさきて、村の貧困罹災者に同情金して送り越した奇特の人である。
笠間一之助氏は大字吉田の生、小川町笠間呉服店の養子となり、現在に於ては川越市に於て一流の呉服問屋として益々隆昌の域に進みつゝある。氏は青年教育の必要と郷里を思ふ一念から今回青年訓練所銃器購入費として金貳百円を同村青年訓練所に寄付された感ずべき仁である。
船戸源次郎氏は越畑の生で、小川町に分家し、十有余年の辛苦を以て印刷業に成功し、今回七郷小学校備品費として金貳百円を投じて寄付せられた奇特の人、これ等は何れも初等教育の生んで麗しい清い結晶であるといへやう。

『埼玉日報』1934年2月4日
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