第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
四、村の地名
第6節:村々の地名
▽鎌形村
鎌形村の名前の起原は全く不明である。又、今の処、研究の手がかりも得られない。ただ「沿革」に「鎌形村 俚碑ニ曰ク 本村ハ鎌倉八幡ヲ遷セリト 因ッテ鎌形ノ語アリト云ヘリ」とあるからこれを参考に上げるに止める。次に「風土記稿」に「鎌形村ハ鎌形郷、大河原庄松山領ニ属ス」とあり、「沿革」ではこれを「松山領ニ属シ鎌形郷大河原ノ庄ト唱フ」といっている。一体この郷、庄、領というのは、どんな意味のものなのだろうか。
古里村の項でのべたように大化改新によって、五十戸を単位として「里」が置かれ、この「里」が後に「郷」に改められた。郷は令制上の末端行政区劃である。ところが庄園が成立し、これが全国的にひろがるにつれて、私有地の荘や名に対して、国の開拓地は、郷又は保といったという。然しその郷や保も次第にその内容が変り、公私有に拘らず、土地の一区劃の名称ということだけになってしまった。応仁の乱からはじまり豊臣秀吉の全国統一と、徳川家康の幕府開設まで続いた一世紀半の戦国動乱のために、荘園の領主や守護、地頭などが、支配者としての位置を失い、これに代って新らしい支配者として侍が抬頭し、従来の名荘郷という土地所有の単位は破れて村を単位とする土地所有に代った。太閤検地は、村単位の検地帳を作って村の区域を確定したのである。従来の庄郷はここで消えたわけである。
それにもかかわらず、風土記稿に鎌形村に庄や郷や領についての記録を掲げたのは、当時の土地支配の関係を表わしたのではない。かといって、過去の支配の過程を系統的に説明したものでもなく、いわば無秩序に名前を並べたものに過ぎない。編纂当時そのような伝えがあったことを示したものに止るものとうけとれる。つまり大河原庄と唱える庄園があって、ある時その下に属していた。鎌形郷といっていたこともある。領というのは戦国時代、群雄領地の意味であるから、松山領といえば松山城の支配下あったことを示しているという程度のものである。「風土記稿」の総説では、庄については、現在そう唱えているといっているだけで、その外の説明を加えていない。領は郡内に川島領、多磨川領、松山領の三つがあり、松山領は松山城のあった頃の、城付の村々のことであろうといっている。
郷については、玉川郷を説明して「合村八、文禄三年(1594)郷中に御代官陣屋ヲ置レシヨリ、其支配ニ属スル村々イマ多ク玉川領ノ唱アリト云フ」といい、大蔵郷と鎌形郷については「大蔵村一村ニテノミ唱フレバ郷トイハンモヲボツカナシ村名ヲシイテ郷名トナセシモシルベカラズ」「鎌形一村ニ限レリ、大蔵村ニ同ジキカ」といって、玉川村は玉川領といわれる八ヶ村の中心地で、この八ヶ村を総括して玉川郷という場合には、その本郷に相当するものであるから玉川村を玉川郷というのは尤であるが、大蔵や鎌形のように一ヶ村限りで郷といっているのは、本来村と称すべきところを私称して、郷といったにすぎないという見解をとっている。郷とは、いくつかの村々を含んだ行政区劃だと考えているようである。そして郷も領も、本質的に変りがあるのではなく唯称え方のちがいだという考に立っているようである。要するに、庄、郷、領については、そのような呼び方の伝えがあることを書いたにすぎない。行政区劃としてはすべて村が単位となっていたのである。尚参考のため、「郡村誌」と「風土記稿」により、各村々の庄、郷、領の呼称を上げれば▽亀井庄 根岸村、千手堂村(玉川郷松山領とある)
大河原庄 鎌形村、遠山村
水房圧 勝田村、太郎丸村、広野村、吉田村、古里村
▽松山領 鎌形村、大蔵村、遠山村、勝田村、太郎丸村、広野村、越畑村、吉田村、古里村
▽玉川領 将軍沢村、根岸村、平沢村(玉川郷ともある)となっていて、菅谷や志賀の村は庄郷領の唱を称えずといっている。庄、郷、領は制度として画一的に存在したものではなかった。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
鎌形村の地名では女久保、小畔、千騎沢、シヤラク屋敷、夜打久保、木ノ宮等が説明困難である。尚二、三の地名について考えてみよう。
アナタ 今の曾利町の区域にある。穴田の意味であろう。曾利町にはドブ田もあるが、穴田というのはまるで穴でもあいているように馬の足など、スッポリと入ってしまう田をいうのだそうである。遠山にも穴田がある。この穴田は麦から一把位スッポリはいるという。平沢にはアナ畑といって、雨水などどんどん吸ひ込んでしまう畑があるという。志賀の籠田なども水もちの悪い田を称したものではないだろうか。
木曾殿屋敷 「風土記稿」に「村の南方に竹籔から湧き出る小流があって、これを木曾殿清水といいひでりの時でも水が涸れない。その辺を木曾殿屋敷といっている。この附近に総計六つの清水があったが、今はその形も残っていない」と書いてある。木曾殿屋敷の地名は別に述べたように、この清水が義仲の産湯清水の一とも考えられ、又、義高の産湯清水だともいわれており義高はこの木曾殿屋敷で生れたのだとも伝えているから、その話から生じたものであることはすぐわかる。木曾殿屋敷の東、地続きに曹洞宗の禅寺(ぜんでら)班渓寺がある。これは義高がその母「威徳院殿班渓妙虎大姉」追福のために草創したもので、これを中興したのは寛永三年(1626)に死んだ鶴峯という僧であるとなっている。この説は江戸時代にも信じられていたもので、享保四年(1719)に同村の簾藤佐五左衛門という人が奉納した鐘の銘に「鎌形村威徳山班渓禅寺者木曾義仲 長男清水冠者義高為阿母威徳院殿班渓妙虎大姉所創建矣……」と書いてあるということが「沿革」に記されている。この鐘は戦時中金属回収のため供出し今はない。木曾殿屋敷で、義高が出生したという話とうまく結びつくわけである。又、八幡神社の神宝に銅の華蔓が二つあり、その一つは円形五寸五分の中に弥陀の坐像を鋳出して、右側に「奉納八幡宮□□」左側に「安元二丙申天(1176)八月之吉清水冠者源義高」と書いてある。「風土記稿」には「当初ニ置ケルユエンハ伝ヘズ」としてある。どういうわけでこの華蔓がここにあるのかわからないというのである。正徳年間(1711-1716)に書記したという「鎌形村八幡宮縁起」にもこのことは記してない。とに角義高が八幡宮に奉納したものであることは動かぬ事実であるし、その八幡宮が鎌形の八幡宮だとすれば、義高がこの地に何かの関係をもっていたことが想像出来る。宮崎氏【宮崎貞吉】の「菅谷村史」は大蔵谷の戦の時当時二才の駒玉丸、後の義仲が畠山重能に救われ長井の斎藤実盛を介して信州の中原兼遠の許で成人した。駒王丸の生れた場所を里人が「木曾殿」と唱したのは後世のことであるが、義仲は誕生の地を慕って、ある時ここを訪ね、その母が大蔵経長の娘であることを知り、その菩提のために寺を建てた。これが班渓寺である。義高も又、後日ここを訪ねて八幡宮に華蔓を奉納したのだと説いているが、事実はこれにうまく辻妻が合っているかどうか。甚だ疑わしい。義仲、義高二人の誕生に関する伝説が混同して区別出来ない。強いて区別すれば、この二人について、誕生の地、誕生の産湯が同じ場所で同じように二回行われたことになる。これは常識的に信じられない。然し伝説の通りではないが、何かこの伝説の生ずるような機縁が義仲乃至義高とこの地との間にあったのであろうということだけは分るのである。木曾殿屋敷はこの伝説にもとづいて起った名前である。