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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第6節:村々の地名

▽千手堂村

 村名の起源については次のような伝説が、「沿革」に記してある。
「村上天皇の天暦三年(てんりゃく)(949)に千手観音堂を造営され、武蔵国比企郡に土地を給与された。それでその土地を千手堂村と名づけ、寺を千手院といった。寺の建物は一年余りで竣工した。その後、文治(ぶんじ、1185-1190)建久(けんきゅう、1190-1199)の頃に兵火にかかって、この建物は焼失した。そして更に数代を経て天文年中(てんぶん)(1532-1554)に幻室伊芳という住職の時再建した。ところが又々享保元年(1716)に火災にあって烏有(ちょうう)に帰した。然し観音像は無事であったという。又、菅谷の館に重忠がいた頃その家来がこの村に居住し、そこに塚が三つあって鎧塚(よろいづか)といっている。」というのである。これに対し「風土記稿」では、千手院の解説で、「当院は昔、わづかの堂であったが、幻室伊芳という僧が一院とした。それでこの人を開山としている。伊芳の命日は天文十五年二月朔日(1546年3月1日)である。又、入間郡黒須村の蓮華院の観音堂に掛けてある鰐口(わにぐち)の銘に『奉施入武州比企郡千手堂鰐口大工越松本、寛正二年辛巳十月十七日釜形四郎五郎』とあるから、この鰐口は千手院のものであり、寛正(かんしょう)の頃(2年は1461年)はまだ堂であったことが分る。」といっている。
 「沿革」でははじめから千手院であったといい、村名を千手堂村といったという。風土記稿では、寛正の頃はまだ千手堂であったといっている。院というのは一応形のととのった寺院であり、堂というのはただ仏を安置したにすぎない建物という意味がうかがえる。さてこれは千手院のいわれに関することで、直接村名について述べたものではないが、風土記稿の述べるように鰐口の銘文という動かぬ証拠があるとすれば、この千手堂が千手堂村の村名になったということは正しいと見なければならない。「沿革」で村上天皇の時(在位946-967)千手堂村と称したというのは、当時の地方制度の上から見ても異論のあるところである。とも角村の名は千手観音の千手堂から出たものとしてよいであろう。
 比丘尼山(びくにやま) 「沿革」雷電山(らいでんやま)の条に「本村の字比丘尼山から雷電山に登る道が一本ある。七丁余りあって、至ってけわしい。」といっている。比丘尼山は雷電山の西麓から中腹の地帯に当っている。比丘尼の住居でもあったのであろう。比丘尼は、広野の天ヶ谷(あまがやつ)でも触れたように、民間信仰に活躍した尼形の巫女(みこ)で、元は熊野修験者の妻であった。千手堂では最近まで、熊野信仰に基く神事芸能が行なわれていた。これについて昭和三十七年(1962)七月の「菅谷村報道」に、行者西沢富次郎氏の体験談が紹介されている。これによれば火渡りや、剣の刃渡りなどの神事が行なわれ、信者たちはこの神秘な行事に驚嘆し、争って火ぶせ厄除けのお札を頂いたという。火渡りの神事は次のようにして行なわれる。
 先ず松薪(まき)百本を積み重ねてこれに火をかける。中座と称する行者を中心にし講人がこれを囲んで祈禱をはじめる。「オンサンバタラヤシリソワカ」の呪文が口々に繰り返えされ、祈禱が最高調に達すると、神が中坐にのりうつる。中座の手にある大幣束が風もないのに急に逆立(さかだち)する。両足を堅く縛って胡座していた行者がそのまま二、三尺跳とび上る。かくして神霊がのりうつり精神統一の出来た行者は、やおら立ち上って、燃えしきる猛火の上を、真跣足のまま歩き渡るのである。行者の目には炎の色がカニ色に映り、熱さを全く感ぜず、火傷もしないという。
 刃渡りの方は、剣の刃を上に向けて、梯子のように組みたて、これを垂直に立てて、これを昇り、且つ降りるのである。西沢さんは十三段の梯を昇降した。勿論怪我はなく、つるぎの刃元からは白い御光のさすのを感じたそうである。この熊野信仰は数人の同志により講が結成され、熊野神社の社(やしろ)も建てられた。
 本山派に属する修験者が昔の村々に居住したことは前にのべたが、この本山派の中央根本道場が、和歌山県の熊野山であった。院政の行なわれた頃、法皇、上皇がたびたび熊野詣をしたので、その風が一般民衆にも及び、中世には熊野参詣が大流行となった。熊野道者が全国各地から集ったのである。これに呼応して熊野山からも、御師や先達などが出て霊験の宣伝につとめた。この御師や先達、道者のあるものが山伏である。山伏は近世になると、村々に住みつくものもあり、神社の神職としてくらすようになった。修験道は天台や真言の密教と習合して成立したものであるから山伏は寺院の支配に属し乍ら、一方では神職として神社に奉仕したのである。元来山伏は神道的な作法に馴れていたからである。この山伏には、妻帯の禁制がなく、巫女を妻として神社に仕えて来た。この巫女が比丘尼である。比丘尼は熊野山伏の憑り祈禱の時、ヨリマシ尸童の役をつとめたものであったことも前にのべた。火渡り行事の中座というのはこれに似たものであろう。巫女は近世になると口寄せといって、生霊(いきりょう)を呼びよせたり死霊を呼出したり吉凶禍福を語ったりする「おがみ」を行って生計をたてたりした。諸国を廻り歩いているものや、村の堂に籠(こも)り定住しているものなどがあった。関東地方では、これを口寄せ、梓巫子などというとあるが、この土地で昔「イチコ」といったのがこれに当ると思う。
 さて話が大分横道に入ったが、千手堂村の熊野信仰の起原は語られていない。内田孫三郎さんの話によれば西沢さんより前に福造さんという先達があって、この人が熊野講をはじめたという。然し最近までこの信仰があったという事実は、ずっと昔からこの信仰があったか、又は近世になってその信仰が講となって実現するような信仰の基盤が前から存在していたかを示している。従来何にも関係のない処女地に、この信仰が突然に出現するとは考えられない。そこで古くから信仰があり、又はその素地が養われていたとすれば、その根元となったものは、山伏の活動とか、その妻である比丘尼のはたらきであったろうと想像することが出来るのではないか。西沢さんの語る火渡り神事には、ヨリマシとしての巫女は出て来ないが、これは最近になって変形したもので、本来は矢張り女性のヨリマシであったのではないだろうか。こんなわけで比丘尼山はこの熊野信仰の角度から、そうした比丘尼に関係して生れた地名であると考え得るのではないだろうか。若し又、熊野には関係ないとしても、口寄せを業とする比丘尼の存在は明らかな事実であるからこのような比丘尼に関係した地名とも考えられるわけである。
 尚、内田孫三郎、高橋正忠両氏の語るところによれば、比丘尼山はもと五郎谷といった。ここで死んだ人などあり縁起の悪い場所と考えられている。住家のあとのような平地があり、椎かしの古木があった。この古木の下に尼さんの住んでいたという比丘尼堂があったらしい。布目瓦の破片が出たという。比丘尼の住居があったのだろうという想像はあたっているのである。
 小千代山 「こじょう山」と発音する「口上山」の意だという。平沢の舞台でキリスト教信者が芝居をし、その口上が聞こえたのでこの地名を生じたというが、これは付会のようである。
 トイの入 樋の入である。ここには豊富な清水の湧く井戸があった。谷の一番奥で、摺鉢の底のような地形になっており、周囲は大木が生い繁って夏でもヒンヤリする場所である。旱魃の時はこの水を汲んで生活した。この湧水から生じた地名である。今は木を伐ったため水が長もちしないという話である。
 阿弥陀の又 阿弥陀様の堂があり、今もその跡に石碑がある。門先はその門先の意味であろう。この辺に信仰の建造物があったものと思われる。その他の地名については調査が及ばない。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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