第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
四、村の地名
第6節:村々の地名
▽大蔵村
「風土記稿」に「源義賢が久寿(きゅうじゅ)二年(1155)八月に武蔵国大倉館で義平の為に討亡されたということが『吾妻鑑』の外『平治物語』や『百練抄』などにも見え、義賢の墓もあり、又、瀬戸村の荻久保氏、馬場村の馬場氏、田中村の市川氏など近隣に義賢に仕えた武士の子孫も多いので、大蔵村が義賢の旧跡であることは間違いない。そして大蔵という地名は、久寿年間から称えていたものであることもわかる。」といっている。義賢の事蹟については、「風土記稿」の記載に従っておこう。然し大蔵という地名の起原は伝えられていない。後日の研究に任せることにする。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
寛文の字名中、坊の上(ぼうのうえ)は安養寺の上の意味であろう。
特殊な地名としては、不逢ガ原(あわずがはら)がある。村の南方にあって中央から北は少し北東へ傾斜している。中央に一条の谷があって、平素は小泉が湧出している。これから南は平らな森で、将軍沢村の不添の森(そわずのもり)に属している。明治初年には村の秣場につかっていた。不逢ガ原の中央を流れる小泉は小谷から流れ出すもので、これを入加(にゆうか)堀といっている。この入加堀が八王子街道と交るところに石の橋があり、これを縁切橋とよんでいる。この橋に祈念すると不思議に縁が切れると信じ、又嫁入、婿入の時はさけて通る。
地名辞書では、鎌倉の栄えた頃、相模の国から上州や信州へ往来するものは、武蔵国の西部山添の地方を通り、府中から入間川に出て比企、男衾の山野を経由したとのべ、宴曲抄の中の「結ぶ契の名残をも、深くや思ひ入間川、此里にいさ又とまらば、誰にか敷妙の枕並べんと思へど妹にそはずの森にしも 落つる涙のしがらみは げに大蔵につき川の流も早く比企野が原、秋風はげし吹上の 梢もさびしくなりぬらん……」をひいて、その道筋を示している。
宴曲は鎌倉時代から室町時代にかけて、貴族、武士、僧侶の間に流行した俗曲である。これは善光寺修行という道行きの歌詞に出ているものである。不添の森や縁切橋、不逢ガ原などがこの道中で、名高い風物として、往来の人の口の端に上ったことが想像出来る。それにしても、この人生の哀別離苦の悲しみを、風雅な言葉で表現した地名はどのようにして起ったのであろうか。
入加(にゆうか) 入加はこの不逢ヶ原の地域で、昔は将軍沢村の地域に跨っていた。入加の意味は地元の古老も分らない。そこで大変に大胆な想像を試みれば、これは入会地に関係して出来た地名ではないかということである。前述のように不逢ヶ原は村民の秣場となっている。
一定地域の人たちが共同で使用収益する場所は入会場、入会地、入会山、入付場、入稼場、立入場、立会山、稼場所、稼山などと呼ばれていた。入会はニューカイであり、入稼はニューカである。入会、入稼の文字を見て誰か学問のある人がこれを音読みした。文字を知らぬ里人たちはこれを真似て「ニューカ」といい、又誰かがその発音をきいて入加と書いた。あまり珍らしい文字と発音の地名なので右【上】のような想像さえ出てくるのである。