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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第5節:特殊な地名

武士に関係あるもの

▽馬場

 鎌形、吉田、勝田、広野の各村にある。いづれもばんばと読む。但し勝田だけは文字が不明である。鎌形の馬場は、塩山の南麓にあって、八幡神社縁起に「峯頭(塩山)に登れば比類なき四顧の佳景……前面を海道馬場と号し、其南を木曾殿屋敷といふ……」とあり、地人は八幡神社流鏑馬神事の馬場があったので、この地名が起ったのであると信じている。
 吉田の馬場は、陣屋東、矢崎などの地名があるので武家の生活の跡であり、広野の馬場は、杉山城主の騎馬練兵場であるとされている。勝田は隣村の伊古【現・滑川町伊古】に番所があったので、その名が移ったのではないかと想像されている。
 前掲の武士の館の項でものべてあるように、この人達の館の構内や、周辺には馬場が作られて、常時武芸の修練にはげんだとあるから、本町に存する馬場の地名も、概ねその馬場が地名の起原になったと考えてよいと思う。
 然し私たちは、この説明だけでは矢張り何かスッキリしない気がする。説明があまりに常識的で定石通りになっているからかと思う。そこでここにことさら異を立てて、参考に供することにする。
 農業国の日本人は先ず水田適地を発見して、米作を基幹として農業を営んだ。その間、勿論畠作も行なわれたが、この方は極めて原始的な粗放的な方法で、いわゆる焼畑、切替畑などが主体になっていたと考えられる。ところが人口の増加や、切替畑の不足、畠作物の種類の増加、従って農業技術の進歩などがあって、自然に常畑が開けはじめて来るようになった。この常畑開発には先ずその適地がもとめられた。それはどんなところかというと、大体水の流などに接した丘陵地の末端の緩傾斜のところ、水を引いて田にするまでの便宜のないような場所とか、山の中腹に僅かな平地があって見晴らしのよい、山登りに一休みするようなところ、こういう場所であった。ここが常畑の適地とされ畑が開かれたのである。このような地形の場所は「ハバ」「ハンバ」などと呼んでいる。「ババ」「バンバ」と大変よく似た言葉である。
 そこで上述の四地区を見ると、大体右【上】の地形に一致している。とくに鎌形は地形が一致しているだけでなく、八幡神社縁起に「海道馬場」と書いてある。この縁起は比較的新らしい時代のものと思われるが、(正徳年間のもの)「海道馬場」の地名は縁起前の古いものであることは言をまたない。海道馬場は上下転ずれば、馬場海道であり、文字を改めれば、馬場街道でもあり、更に転ずれば、馬場ガイトでもある。こうなると、ババの地域という意味になってくるから、「ハバ」「ハンバ」の場所というように筋を辿って、常畑開拓の適地まで到達することが出来るのである。八幡神社の馬場の出来る前に、この辺はすでにバンバとよばれる地であったのではなかろうか。杉山城の馬場はとも角、右【上】のように考えてくると吉田の馬場も、勝田のばんばも、無理に武士や戦争に結びつけたり、番所に縁を求めたりする必要もなくなってくるのである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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