第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
四、村の地名
第5節:特殊な地名
武士に関係あるもの
▽清水
「日本は水の豊かな国、そうして水の恩恵を深く仰ぐ国であった。田植に雨を待ち雨を喜ぶものが三千万人もある上に、物をすすぎ浄めると称して、ただ洗うというだけでは気がすまず、ザアザアと水を流すことが国民一同の好みであって、よほどたっぷりと水がないと、どんな静かな土地にも落督いて永く住み得なかった」これも学者の説である。
川の水を汲んだり、谷川の水を筧で引いてきたり、或は岡の側面に横穴を穿って水を導き出したり、井戸を掘ったり、様々な苦心と方法で水を求め、そこに人々の聚落、村々が発生した。だから地表の割れ目、崖の下などから自然に憤出する清冷の清水(しみず)は、天与の恩恵と考えられた。清水は村人にとって貴い天然の資源であり関心の焦点であった。それで清水のある場所は期せずして、忽ち清水という地名となって伝ったのである。従って清水の地名は甚だ多い。字名として残っているものだけでも、菅谷、鎌形、大蔵、将軍沢、古里、吉田、越畑、川島等、全村にわたっており、清水とは呼ばないでも、平沢の赤井に類する地下水の露頭が各地に多数存在している。それぞれ水に関係のある名で呼ばれている。
清水の地名は清水のために起った地名である。だからこの地名には別に問題はない。然し清水が人生に多くの恩恵を与えたことから、清水の地名には、いろいろの伝説がからまっていることが多い。単に水ではないかといって「水に流してしまう」ことは、日本人の感覚に合わなかったのである。
その一つが鎌形の木曾義仲産湯清水である。由来、鎌形は良質の清水に恵まれていた。鎌形の自然を説明するのに「七清水、三ガイト」の言葉で、代表させたということは前述した。
ところで義仲の産湯清水の伝説は、「埼玉県史蹟名勝天然記念物調査報告 第四輯」に、「此清水は郷社八幡神社境内にありて、其拝殿の北の石崖の中より湧出しつつあり……この水を筧にて水盤に入れて、参詣のものこれを漱水の用となすという。此清水の傍に木曾義仲産湯清水と彫せる碑あり。年号を記せず。この水を入れる水盤には享保十五年(1730)正月と記しあり。故にこの建石もこれと同時に建設せしものならんか…… 義賢の住みし大蔵館は、この都幾川の南岸にあり。然して鎌形の地に別墅(べっしょ)を設け、夫人山吹姫を住居せしめたるを以て、義賢の長子義仲はこの地に生る。その時この八幡神社境内の清水を汲みて産湯に用いたるによって、斯く木曾義仲産湯清水と称するに至れりという……」
と記されてある。これが義仲産湯清水の筋である。大部分の人がこう考えているのである。昭和三十七年(1962)九月、菅谷村では、文化財保護委員会の議に基いてこれを村指定の文化財として村の管理に定めた。 ところがここに全く同じ話があり、産湯の主は義仲ではなく、その子の義高となっている。これを伝えているのは前掲の「鎌形八幡神宮縁記」であって、これによると、
「其南(海道馬場)を木曾殿屋敷という。左馬頭義仲の長男、清水冠者義高此処にて誕生ましましけるに、七箇所の水をとりて、産湯に進られたりとて、あたりに近き此面彼面(このもかのも)に木曾殿清水、岩清水、天井清水、照井清水、塩沢清水、此外二ヶ所の名水八幡の社地にあり……」
といっている。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
義高が産湯を使う時に、父義仲と全く同じ例に従ったと考えれば、同じ話が二つあっても差支えはない。尚、義仲は八幡神社境内の清水と書いてあるだけで、七ヶ所の清水とはいっていない。八幡神社境内一ヶ所だけの水かもしれない。似てはいるが細い点ではちがっているといえばそれも尤である。
まあ然しそれにしても、父子とはいえ話があまり一致しすぎているので、唯御尤様では引き下れない気がするわけである。大体、日本には偉人や英雄といはれる人たちの誕生井とか産湯水とかいうものが各地に沢山ある。滋賀県の三井寺はもと御井寺で、境内の井戸水は、天智、天武、持統三帝の産湯に使われたといい、その他弁慶だの義経だのという歴史上、伝説上の人物の産湯井などが各地に残っているという。これは産湯の水が単に赤ん坊の身体を洗うだけの意味でなく、その一生を支配する神秘的な行事と考えられていたからである。昔江戸っ子の要件は水道の水で産湯を使うことであった。江戸子気質は、水道の水で産湯を使うことから出発したのである。
こんなわけで、鎌形の清水も、義仲に結びついたり、義高に結びついたりしたものと思われるのである。別に歴史上の事実として主張しようというわけではない。ただ由緒ある高名な人物に結びつけば満足なのである。それで義仲といってみたり、義高といってみたり、一つの話が二様に伝ったりする。実はどちらでもよいのであった。
前掲の「埼玉史蹟名勝天然記念物調査報告」では、この二つの伝えの矛盾に気がついて、木曾殿屋敷に義賢夫人の別荘があって、義高もここで生れたのでこの清水(八幡神社)を用いて産湯に供し、産児の前途を祝ったのだといって、辻つまを合せている。父と子が同じような産湯の使い方をしたというのである。私たちは義仲にしろ、義高にしろ産湯に結びつけた伝説にすぎないと思うが、別に事実無根の作りばなしだといって葬り去ろうという訳ではない。歴史事実として信ずるだけの根拠に接し得ないというだけである。
それからもう一つ言っておきたいのは、前掲の木曾義仲産湯清水の石碑であるが、水屋の水盤と共に享保十五年(1730)に建設したものだろうといっているが、これは全然見当ちがいの想像であって、極く近年のものである。この建碑の真相を聞いて記憶している古老がまだ生存している。幕末か明治初年のことらしい。木曾義仲産湯清水の伝説が、大分地方に喧伝されて有名になって来た頃ある時、村の有志二、三名で相談し、この清水を義仲の産湯清水ということにしようではないかということになり、ふるめいた石を探し出して、木曾義仲産湯清水と彫刻し、態々(わざわざ)建碑の年号も、建設者の名もきざまずに立てたのだという。この揮毫は、簾藤某氏であると聞いている。この話によれば八幡神社の清水が義仲産湯と確定したのはこの建碑から始ったのであって、産湯清水の伝説は勿論、早くからあったのであるが、それがどこのどの清水であったかは確定していなかったのではないか。それ故にこそ、七ヶ所の清水などという話も生れて来たのであると思われるのである。前掲の諸記録や、伝説によっても、八幡神社の位置が塩山であるか、現在地であるか明らかになっていないこの点からも、右【上】のことが考えられるのではないだろうか。
武士が館を構える土地の必須要件として、その付近に、清浄な飲用水のあることがあげられている。水の手を絶ち切られて、遂に落城の悲運を招いたという話は、戦記物語に数が多い。近くの松山城は、土中から焼米が出る。これは昔籠城の時、水源を切られて、致命的な打撃をうけたが、これを寄手にさとられぬため、城内の白米を使って馬の体を洗いそれを水と見せかけて敵を欺いたのだという。白米は貯蔵してあっても、水の手を切られては、せんすべもなかった。焼米はその米が落城と共に焼けて埋もれたのである。
本町の清水の地名も武士の館に関係あると思われるものがある。鎌形は前述のように木曾義仲の伝説があるし、大蔵には大蔵館がある。菅谷も又同じでいづれもその例と見てよいであろう。