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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第5節:特殊な地名

武士に関係あるもの

▽武士の館

 竹の花から始って武士の館に関係のある地名が大分続いて出て来た。そこで少し横道に外れるが、鎌倉初期頃からの武士の館の実態を探ってみよう。地名の理解に資するところが多い。次にかかげるのは、その頃の文献や、絵画などを根拠に学者の手によって再現した館の仕組や生活の状態である。関東山寄りの相当有力な武士の館であることを先ず念頭において読む必要がある。
「山寄りの地帯なら、谷あいにまとまった平地を作った小河川が平地に出ようとするところ、あるいはなだらかな台地を背にした川べりに水田のひろがっているようなところ、このようなところにはその近くの小高い場所に、武士の館がたてられている。周囲は空濠(からぼり)か、水をたたえた堀にかこまれ、大体正方形に近い敷地である。その辺はほぼ一五〇米から二〇〇米位、内側には高さ一、二米の土手がきづかれ、垣根がめぐらされている。なかには二重の堀によって囲まれていたり、二つの正方形を連絡して中間に堀があったりするような手のこんだ形式のものもある。
 門の上には物見の櫓が出来ていて、楯や弓、矢、屋形なども準備され門をあけると扉の内側にも楯がならべられており、楯の表には主人の紋どころがあざやかに画かれている。いざ戦となると門を閉じ、館は城砦に変ずる仕組みとなっている。
 門の前には、かやぶきで床もない、いかにもそまつた長屋が見えている。これは屋敷に仕える下人たちの住居である。その前には水田がひろがっている。この水田は門田(かどた)とよばれ、館の主人がもっとも大事にしている。手作りの田地である。長屋の下人たちは、この田の耕作に使われている。
 門をくぐると、そこにも又、かやぶきの下人たちの住居がならび、犬がほえ、厩(うまや)では馬がいなないている。厩の柱には魔よけのまじないとして猿がつながれている。館の中央には主人の住む母屋がたっている。屋根は、かやぶきか板ぶきである。床があるが、板敷きで、せいぜい主人たちの坐るところだけが、たたみになっている。部屋一面たたみ敷きではない。
 武士のたしなみとして弓矢、鎧、かぶとは常によく手入れされ、手近な場所においてある。主人夫婦のやすむ一室のまわりには大幕を張って、外部からの遠矢をふせぐ用心もしてあった。
 母屋から南につき出した細長い家の一部を、遠侍(とおざむらい)といって、家人や郎党などが、詰めている場所である。昼間は武器の手入れや武芸の練習にはげみ、夜は不寝番として警戒にあたるのである。
 当時の戦闘は騎馬戦が主体であり、主要な武器は弓である。射撃に熟練しなければならない。それで狩りくらを催して、館のまわりの山野に鹿、猪、狐、猿などを追い廻して腕を磨いた。
 母屋の裏側か、館の外側の方には、馬場がつくられており、ここでも武芸の修練をした。流鏑馬(やぶさめ)や、笠懸(かさかけ)、犬追物(いぬおうもの)などで、武芸をきそうこともしばしばあった。
 次に館の周辺の状況を見よう。館のあるやや開けた谷や川べりを登って行くと谷は細かく分れ、台地や丘のあいだに樹枝状にくいこんでいる。これを関東ではヤツ、ヤトといっている。(ヤツ、ヤトについては「谷戸」参照)この谷々の中に、それぞれ、一つ位宛、かやぶきで床はなく土壁に入口だけのついたそまつな家が散在する。
 これが百姓たちの家である。彼等は家の周囲の田畑を耕作し、その収穫物の中から、館の主人に年貢を出す。館の主人の倉にはこれ等の年貢、米、麦、大豆、小豆などが貯えられ時には種籾など百姓に貸し出された。これは秋に利息をつけて返すのである。
 百姓は年貢の外、田植えや田の草とり稲刈りなどにも、夫役としてかり出されたのである。
 このようなヤトの百姓たちの家々にまじって、要所々々に、館の主人の家人、郎党とよばれる従者たちの家がある。百姓たちよりは多少立派だが、大したちがいはない。彼等も又、家の周囲の田畑を耕す農民であった。農民の中で、能力のある者がとくに従者として館に仕えていたのである。
 このように武士の館を中心に周囲にひろがる田畑、これを耕作する百姓、こういう形で構成されているところを見れば以上のべたようなグループの単位は一つの農場だといってよいのである。
 館の主人は農場の主人である。家人や郎党は、百姓たちを支配したり、年貢をとり立てたりする事務員であると共に、外敵から農場を守る警備員でもあった。
 以上学者の説を意訳して紹介したわけであるが、これは関東山添いの可成り大きい武士の例と思われるから、本町の場合、この型通りにいかない。それでも、菅谷、杉山、越畑などに館があったとすれば、これを小規模にしたものと考えてもよいし、或は又どこかの大きい館の主人に従う家人、郎党の住家であったと考えてもよいのである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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