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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第5節:特殊な地名

武士に関係あるもの

▽城

 武士の居宅や、戦陣の拠点(きよてん)として、その名を残しているのは、いうまでもなく城である。「じよう」「しろ」と呼ばれている。その例は菅谷の城、城の内、遠山の城山の腰、越畑の城山、杉山の城山、雁城等である。先ず、菅谷の城について、「沿革」から説明を聞こう。
 「菅谷古城、所在本村南の方、字城」とあるから、城という字名は菅谷の古城によってはじまったことが明らかである。「この古城蹟は、東西三丁五十五間、南北三丁二間で五稜形をしており、南方は都幾川に沿い、水面から本丸までの高さが直立にして十余丈もある天険である。東西北の三方は空堀(からぼり)で、本丸、二の丸、三の丸等の名がある。堤の形も残っている。城内は畑や林となり外曲輪の堀敷も、田畑となっている」とのべ、更に、「梅花無尽蔵」に、長享戌申八月十七日須賀谷之地平沢山に入り太田資康之軍営を問うとあるから、この城は太田氏の陣営であったことがしられる。又、「東路土産」に鉢形をたって、須賀谷という所で小泉掃部助の宿所に逗留したとあるから、この小泉という武士の居邸もここにあったと思われる。又、ここを畠山重忠居城の地ともいい、後に岩松遠江守義純が、畠山の名跡をついでここに居住したなどといっている。「吾妻鑑」元久二年六月二十二日の条に、『重忠十九日小衾郡菅谷を出て……』とあるから、その頃重忠はこの地に移っていたことがわかる。と書いてある。「風土記稿」の記事も、これと大同小異で殆んど一致している。
 さてわが国に於ける城廓の起原は不明とされている。上古の時代に城(き)稲城(いなき)というものがあり、これは単に住居を守るための構築物にすぎなかったが、これが城廓の起原であろうといわれている。天智天皇の頃朝鮮との紛争があったため、太宰府に水城の大土堤、その他の外敵防備のために築城のことが発達した。平安時代には奥州経営のため胆沢城(いさわじょう)、衣川(ころもがわ)、河崎(かわさき)、厨川(くりやがわ)、嫗戸(おばと)の柵、更に金沢(かねざわ)柵等が設けられたことは有名である。その目的は居住を主とせず、外寇に備える防備の拠点にあったようである。城ともいい、柵ともいうが、構造、機能上の区別はなかったらしい。その中に鎌倉時代となり武士の世の中となった。従来の城も柵も、結局は軍略上、戦術上の構築物で、武士とは切ってもきれない性格のものである。それで武士の居館を称して城ともいうようになった。従ってこの頃の城は周囲に濠を囲らした程度の簡単なものであったようである。武士の居館を城ともいったが、それよりも館とか、堀の内とかいう方がむしろ一般的であったらしい。武士といっても兵農分離後の武士、百姓という区別の武士とはちがって、その頃の武士はいわゆる地方豪族であって、政府に願って、農耕適地の開墾を許され、家人や郎党、従者下人などを結集して、開発事業を推進していた農場主である。その農場が「別名」であり、農場主は「名主(みょうしゅ)」である。農場の大小によって、「大名」「小名」といわれたのである。だからいざ戦というときには、その館は、城砦となったのであるが、平時は、住宅である。戦を専門とする後世の武士の城とは性格が異るのである。それで「館(たち)」「館の内」「堀の内」という場合の方が多かったと思われるわけである。鎌倉中期からこれらの土豪は所領拡張の争いから山城を構えて社会不安に備え、南北朝の争乱の後はいよいよ堅固な防備の城を築いた。楠氏がその居館の付近に赤坂城を築き、その陥落に備えて金剛山の千早城を構えたのはその例である。その後鉄砲の伝来等による戦術上の変革と共に築城法も変り、城は天険の山地を下って、平地に移り、従来の山城は平城となって、人工的な大城廓が出現した。太田道灌の江戸城は平城主義の先駆となったものである。そして戦国大名の軍事、政治、経済等の拠点として有名な安土城をはじめ、姫路、大阪、広島、桃山、仙台、江戸、熊本、名古屋等数多くの城廓が構築されたのである。そこで菅谷の「城」の起原を考えると、はじめは菅谷の館であったのであるが、土豪等の領地争奪から戦乱が続き社会不安が増すに従って、彼等はその居館を専ら防備の城砦の構えとし、これを何々城と称えた。武士の居館はイクオール城と考えられるようになった。それで現実にはそれ程軍事的に重要な役割を持たなかった館や堀の内なども、土豪即ち武士の住居であるということから、城と呼ばれるようになった。菅谷の城はこの型のものだったのではなかろうか。はじめに城の地名はなかったのである。太田氏や小泉氏の宿所と伝えられているので、重忠当時のその儘でなく、その規模に若干城廓的な工作が施されたことは想像出来る。従って「城」と呼ばれるようになったのは、重忠の時代より後の時代、いわば足利末戦国の時代ではなかろうかと思う。菅谷にも「堀の内合」という地名がある。「城」のこともはじめは堀の内といったらしい。
 このように考えてくると、越畑、杉山などの城山の地名も、大体菅谷の「城」と同じ時代にその因を発していると考えてよいようである。杉山の城は「風土記稿」に塁蹟とあり「村の中程の小高い丘の上、一五○○坪許りの地である。昔金子十郎家忠の居住地だといっているが、はっきりしない。松山城主上田氏の臣、庄主水という者が住んだ所だといっている。越畑村にも庄主水の居住したという地がある」といっている。金子十郎家忠といえば、武蔵七党の村山党に属し、多分入間郡金子村がその本拠であろうという。家忠は保元の乱に源義朝に属して戦功のあった人である。庄主水という人はその素性がよく分っていない。「風土記稿」でも、児玉党の庄氏の子孫か北条氏家人庄氏の一族でもあろうといっている。然し「越畑城址之記」には「荘氏」は、武蔵七党の児玉氏から出てその祖は荘弘高という。永享十年、荘秀俊という人が、上杉憲実に従って分倍河原で功を立て、比企郡内に土地を貰い越畑城を築いて居城とした。そしてその子の荘秀政が杉山に支城を営んだ」と述べ、更に続いて「荘行秀の時式部少輔と称して、北条氏の家老となって小田原城にあった。天文、天正の頃である。」と説明している。して見ると、庄主水は荘秀政のことであり、荘行秀は、庄主水(秀政)の子孫であるということになる。然し、「越畑城址之記」にはこのことが明らかにされていない。
 私たちは今、確かな資料を持つことが出来ないので、右に述べられたような金子氏と杉山城、荘氏(庄氏)と越畑城、杉山城との関係即ちその名前の人物と城とを、一直線に結びつけことは出来ないが、唯これだけのことはいい得る。即ち武蔵七党及びその支流は前述のように武蔵の国山寄りの地帯や谷間の小平野、荒川の氾濫原や、扇状(せんじょう)地、台地の縁辺などに住居を作り、開拓農場主として勢力をきそい合った中小武士団である。この武士団の中には数百町歩を領する「大名」もあったが、今の大字の程度だけを持つ「小名」も多かった。小名主の武士団はいざ戦となると、その一族子弟や従者を率いて、「大名主」の武士団の動員に応じた。菅谷の城や、杉山、越畑の城山は地理的にも地形的にも、これら中小武士団の根拠地に相応しいところである。ここに彼等の根拠地としての「館」が構築されるのは当然である。従って金子氏とか、庄氏とかいう武蔵七党の流れの誰かが、(前述の「風土記稿」や、「越畑城址之記」に現われたそういう名の人物、そのものがそこに館を作ったかどうかは分らないとしても)城をつくったという事実はあったと考えてよいわけである。大体この武士団の指導者は、庄園の現地管理人である庄司や下司の出身者であった。だから荘氏(庄)という姓もこの身分からはじまったものだと想像できる。「庄司さん」といえば「村長さん、町長さん」というのと同じで、呼びなれている中にそれが姓と同じに考えられ、又、名前はしらないでも「荘司さん」で事足りたから、館の主が何という名前であったか、ハッキリ知る必要はなかったのである。それが歴史の上に明確に伝っていない原因であろうと思う。ついでに畠山重忠にしても「明月記」や「愚管抄」など、権威のある史書では、いづれも「庄司次郎」と書いてある。庄司の二郎という意味である。畠山庄司重忠というよび方は誤りだといわれている。庄司の二郎は正確には固有の人名ではない。重忠でなければ史上には伝わらなかったにちがいない。
 だから金子氏、庄氏といってもその人をズバリ指し示すことはむづかしいのである。それはとも角、前述のような地方武士団の館が作られ、それが戦国の頃から城とよばれ、その争乱に直接、或は間接に一役果したものもあったろう。そしてその地が、城(じょう)とか、城(じょう)山とか呼ばれるようになった。城の地名は比較的新らしと見てよい。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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