第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
四、村の地名
第5節:特殊な地名
武士に関係あるもの
▽堀の内
武蔵国には堀の内という地名が殊に多く、新編武蔵風土記稿には、この地名の字が八十四ある。城址があり、又城址があるといわれる村には、大てい堀の内という地名が存しているという。大蔵村の堀の内もその一つである。「風土記稿」には、「古城蹟=村の西方にあって、一町四方の面積があり、その構の内に稲荷社がある。大体陸田となっている。カラ堀と塘(つつみ)の蹟が残っている。これより西方に堀の内という小名がある。昔はこの辺までが構の内であって、帯刀先生義賢の館蹟だといっている。吾妻鑑に義賢は久寿二年八月、武蔵国大倉館で悪源太義平のために討亡ぼされたとある。然し詳細のことは記録がないので分らない。多摩郡にも大蔵という地名があるがこれは関係がない。ここには義賢の墳墓もあり、又、郡中に義賢の家来の子孫だというものもいるから、この大蔵が義賢の旧跡であることは間違いない」といっている。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
一方「沿革」は「風土記稿」と殆んど同じ内容であるが、大蔵の館は村の中央御所ヶ谷戸にあって、東西二方に胸壁が残り、南は秩父郡道、北は村道で境している。この中の九六八三坪が館址である。といって稍々委(くわ)しい点もある。そしてその北側、堀の内には触れていない。北の方は村道でこれが境界だといっているから、堀の内は大蔵館址には含まれていないという考え方である。
大倉の戦については、宮崎北洲氏の「菅谷村史」(大正十五年稿、写本、関根昭二氏蔵)に委しい。義賢は上野国平井に住んでいたが、八幡宮の鎮座する鎌形の塩山に移ろうとして、義平の襲うところとなった。鎌形は義平の荘園であったのを、義賢が掠取(りやくしゆ)しようと目論んだためである。一方大蔵の館には青鳥氏の族、高本三郎が大蔵氏の養子となり大蔵三郎と名乗ってここに住んでいた。大蔵氏は源義朝の荘司である。この大蔵三郎の娘が義賢の愛人であり、義賢はこの女性を訪ねて、しばしば上州からここへ馬を走らせた。大蔵三郎は義賢を歓待して、そのために御所ヶ谷戸に館を作って提供した。大蔵氏は堀の内に住んでいたのである。義賢は愛人の縁をたどって大蔵三郎を使嗾(しそう)し、これを配下として義朝の荘園を侵犯しようとした。鎌形塩山の話はその計画の一環である。義平は義朝の長子である。大蔵の戦は義朝、義賢兄弟の領地の争いである。大蔵三郎もこの戦で斃(たお)れ、義賢は上州平井を指して退却の途中、畠山氏の追撃を受け、児玉郡長幡村大字帯刀で最期をとげたのである。以上が宮崎氏の所論である。宮崎氏は源平盛衰記や鎌形八幡縁起を論拠としているようである。私たちはこの説をその儘信じることは出来ない。尤も否定しさるだけの根拠もないので、一応紹介の程度に止める。そして御所ヶ谷戸に義賢、堀の内に大蔵三郎の館があったのだと二つに分けて考えるのではなく、一つの地区を堀の内、御所ヶ谷戸と二様に呼んでいたが、後世になって二つに分れたと考えた方がよいと思う。「風土記稿」にカラ堀や塘の残っているとあるのは「沿革」の御所ヶ谷戸の地域であるから、ここをむしろ堀の内と呼びたい気がする。御所ヶ谷戸(御所ガイト)も、堀の内も、当時の大地主の住家の構の区劃であって、その中には屋敷は勿論田や畑もあった。堀は必ずしも戦術上のものとは限らず、その屋敷の地域を取囲んだ工作物であったと見てよい。