第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
四、村の地名
第5節:特殊な地名
制度法制にもとづくもの
▽宿
菅谷に本宿(もとじく)、鎌形に上宿、下宿、北宿、志賀に下も宿がある。宿というのは鎌倉時代から、公の用事で旅行するもののために街道上に置いた宿泊地である。江戸時代になるとこれが宿場と称する制度上の機関となり、一定の施設をおいて、公用の旅行に備えたものである。宿内の街道沿いに流水を通じ、これを馬の飲料や火防にあてる水路や、宿の中央に建てた高札場、その付近の公用人馬の継立や、公武の宿泊休憩などを担当する問屋場、本陣、脇本陣などの建造物がその施設の主要なものであった。その外伝馬役、歩行役に任ずる馬指、人夫頭、人夫溜、馬小屋等の公共施設もあり、これ等が中心となって御役町を形成した。そしてその外側には民間の無役町、脇町と称するものが発達して、旅籠、茶屋、店舗、市場などが出来てにぎわいをつくりあげた。
然しこれはいわゆる五街道(東海道、中山道、甲州道中、日光道中、奥州道中)や脇往還など主要な道路に設置されたものである。だから本町内に存する「宿」をこれと同じような規模や性格のものとして論ずることは出来ないと、考えなければならない。
さて旅人の往来はこのような、中央と地方の主要都市をつなぐ主要街道だけでなく、名もない辺鄙な村から村へ、冬は寒風に身をきられ、夏は草のいきれに窒息しそうな、野道や山道にもその姿を見ることが出来たのである。
その一つは旅芸人である。私たちの記憶に残っているものだけでも、正月になると「ああらめでたいなめでたいな」と唱えて、俵ころがしがやって来た。福俵の来る頃、三河まんざいも現われた。祭文語りが来るし、瞽女(ごぜ)もしばしば訪れた。その外、獅子舞、角兵衛獅子のしぐさにも好奇の眼を注いだものである。旅商人も数が多い。越後の毒消売りは夏の頃、季節を定めて廻って来た。「毒消はいらんかネ」という独特の売声と紺がすりの娘姿は、なつかしい思い出である。「針売、印肉の仕替、古傘買、灰買、鼠取売、筆墨売、銭さし売、甘酒売、暦売、もぐさ売、付木売」などの行商が、昔の村々を廻って歩いたらしい。村々への訪問客は仲々多かったのである。これ等の人たちはどこに宿したか。いわゆる民泊の方法により、毎年の旅人はその宿がある民家に定っていたのもある。そうでないものは旅館とはいえないが、半ばこれを業とする旅籠に泊ったのである。
もともと「宿(しゅく)」とはやどりの意味であり、町や村をつなぐ便利な場所に、自然に発生した宿泊地を「宿(しゅく)」ともいったのである。旅芸人や旅人や、そしていろいろの講人や、その代参の人たちが宿泊する場所が、そこここの村々にあったであろうという想像について根拠に乏しいとはいえまい。これらの宿屋は、いはば百姓兼業の簡易旅館で、いわゆる木賃宿の類のものであったろう。慶長(1596−1615)の初年の頃でも、旅人は糧食として、糒(ほしいい)を一日二合五勺の割で携行し、旅舎に入って温湯を貰い、これに糒を入れて食事をするのが常であったという。江戸時代も村々にはこのような簡易旅館があったと思われる。これを宿といい、又その場所を宿と称した。これが宿の地名の起原だと思うのである。
鎌形の上宿は今植木山県道の南、下宿、北宿は北側の字名になっている。もとは上宿、下宿が宿で、北宿の地は植木山下といはれていた。植木山台というのは今の上の台の地区である。上宿、下宿の外に中宿という家号がある。前述のように簡易な宿舎が数軒あったのではないだろうか。尚本陣と称する家号が現存する。本陣は前述のように江戸時代諸侯の往来する街道筋に設置した休憩所である。本陣の分布は往来の繁疎(はんそ)によって異るが、渡川、山越、追分などの地に多く配置された。本陣は宏大な建築をもち、門、玄関、上段の間を具備するのが特色であった。現存の「本陣」がこのような結構のものであったかどうか、而して何故ここに本陣が構えられたのかわからない。いづれにせよ本陣と称する家があるのだから、その他の宿屋もあり、それで宿というる地名となったとする見方には変りはないのである。
志賀の下も宿もこの意味のものであろう。菅谷の「本宿」は「もとじゅく」と呼んでいる。その意味は「元村長」というのと同じ、且つて宿であったという意味をもって呼ばれた名称であると考えられる。「風土記稿」には「昔宿並をなせし所なり」と註している。だから今は宿ではない。今の宿は別のところにあるということも意味している。本宿といわないと今の宿との区別がつかないから、この名が起ったのだと思う。とすればこの本宿は、現在の宿よりも前の時代のもので、より古い宿場であることを示す。地区は、現在の菅谷中学校から農士学校に連なる場所で、城の東側に当っている。ところでこの本宿は何時頃、栄えたものであるか。鎌形や志賀の宿は、とも角県道に面したところである。今の道路とちがい昔の道路は出来るだけ、自然の障害をさけて通り易い場所を通っていたと思うから、この県道も古い時代からの通路であったのだろう。そしてそこに宿が出来たのだから先ず不思議はないのであるが、菅谷の本宿は、県道と現在の宿からは可成り離れており、又、これを通過する道路も縦横共にないのである。この点が解りにくいところである。とすれば菅谷の館に付属しておこった根小屋式の宿か、又は、その西方の鎌倉街道を想定する外はない。鎌倉街道のコースについては、まだ充分に研究が出来ていない。然し将軍沢から大蔵、菅谷、志賀を通る上州街道のあったことは事実である。この街道上の宿とも考えられる。
尚菅谷館址西側の旧鎌倉街道と伝える地点にはその記念碑が建っている。建立のいわれは「旧鎌倉街道記念碑建立誌略」にくわしい。参考のためその一端を紹介しておこう。次のとおりである。 昭和三十二年(1957)九月十五日、皇太子殿下、埼玉県立興農研修所に行啓せらる。村民挙って歓送し奉る。此の状況を撮影したる写真中、関根茂良、田幡順一、水野正男、小林博治、小林久、関根昭二の六氏、相聚り研修所内に堵列するものあり。六氏之を奇縁とし、同年十月二十五日、小川町二葉本店にて清酌閑談し、秋夜の情緒を愉しむ。席上関根茂良氏旧鎌倉街道記念碑建立の素志を開陳す。一同大いに之に和し、建碑の期を翌年桜の頃と定めてその実現を約す。これ発端なり。
昭和三十三年(1958)一月三十一日菅谷村役場に於て第一回発起人会を開く。発起人二十三人、名を連ねて旧鎌倉街道記念碑建立趣意書を発し建碑の趣旨を天下に闡揚す。発端より之に至る間、建設地の選定、碑石の調達、同志の勧誘等その基礎的準備は関根茂良氏により相整へられたり。すでに前年十二月二十七日安岡正篤氏に請ひて碑文の策定及び揮毫を了す。曰く「伊昔鎌倉街道菅谷」とす。趣意書は小林博治之を草し関根氏加刪(かさん)す。左の如し。旧鎌倉街道記念碑建立趣意書
文治五年(1189)源頼朝が奥州藤原氏を討つ時、その大軍は鎌倉を発し一は北上して本県の西部を過ぎ下野国から白河を経て陸奥に入っているが、他の一隊は、西北に向って八王子、飯能を通り、上州高崎から信濃路を越へ日本海岸を伝って出羽に進んでいる。今図上にその跡を辿ると征討軍は秩父連山が東に傾いて武蔵野にその姿を没せんとする山麓の丘陵地帯を通過したものと考へられ、その進路は大体今の八高線に沿ったものと想像される。
本村内に古く鎌倉街道と称せられる地点が数ヶ所存するが今この地に立って地形を見ると頼朝の遠征軍が果して此処を通り過ぎたか否か俄に之を決することは出来ないが少くとも鎌倉から上、信、越を連ねる路線が本村内に存したことは肯首出来る。
畠山重忠の故事、木曾義仲の伝説、後に上州世良田長楽寺の所領が存在したなど又このことを証拠づけるものと考へられる。
私達は徒らに過去に泥(なず)んで古を重んずるものではないが、今の時代が長い過去を承けてこれを遠い将来に伝へる大きな歴史の歩みの一環であることを思ふ時、今私達がその父祖の跡を顕彰することは子孫に対する責務の一端であると思ふ。よって茲に有志相集って鎌倉街道の跡に記念碑を建立しこれを後世に留めやうと計ったのである。
尚、更に思ふことは終戦以来こゝに十年余、敗戦による混乱の期はすでに去ったとはいはれるが、今や米ソを頂点とする自由、共産両国家群のはげしい対立や、人工衛星の出現による科学的成果の驚異に耳目を奪はれ、世は挙げて魂の帰趨を失い、内に省る暇なく、国を治めず家を斉へず身を修めることを忘れて世情騒然、祖国は再び興亡の岐路に立っている。吾々は一大勇猛心を奮起してこの危機を突破しなければならない。而してこの勇猛心に培ふものは日本古来の伝統に根ざした民族精神の覚醒である。古を尚び伝統を重んずる私達の志が結集して建碑の計画となったのであるが、このさゝやかな営みがわが民族精神覚醒への一つの灯になることを念願する次第である。
何卒大方の御賛同を賜りたい。
昭和三十三年一月三十一日
発起人 (順序不同)
関根茂良 瀬山修治 小林博治 関根関太郎 野ロ静雄
関口庄平 根岸忠与 瀬山芳治 笠原祥二 簾藤国平
田幡順一 長島一平 森田 清 金井佐中 内田百太郎
根岸寅次 内田 実 福島愛作 杉田角太郎 安藤専一
高橋正忠 内田家寿 高橋照士此の日、又、建設費を算定して
石工謝礼6000円 同食糧費1000円 建設工費2000円 石材運賃1500円
祭事費1500円 会議費1000円 諸雑費1000円 記念品代3500円
計17500円也とし、発起人及び有志にて之を拠出し、碑石は杉田角太郎氏、台石は簾藤庄治氏より寄贈を仰ぎ、石工は小菅山福次氏を委嘱すること等を決す。翌二月二十日更に左の役員を選任して事業の推進に資す。
委員長 関根茂良 副委員長 田幡順一 同兼書記 小林博治
石工相談役 簾藤国平 田幡順一斯くして建設事業は順調に進渉し、四月中旬その完成を見るに至れり。此の間、碑石、台石等の運搬、基礎工事、建方等の諸作業は、千手堂、遠山の有志により、又基礎石積は内田武一氏担当により進められたり。而して建設敷地は高橋照士、中島茂平両氏提供の山林にて旧街道の俤を最もよく伝へたる地域なり。碑背に刻みたる由緒「昭和三十三年四月吉辰建之、志を同じうする者八十有余名」は出野憲平氏の筆なり。 桜花すでに去り、春色正に酣の四月二十四日午前十時、除幕式を挙行、次いで菅谷中学校講堂に於て記念祝賀会を開催す。出席者芳名発起人の外次の如し。(略)
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)