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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第5節:特殊な地名

制度法制にもとづくもの

▽坪

 志賀村に市の坪、蛭坪という地名がある。市の坪の位置は分らないが、蛭坪は池の入に含まれているから、可成り谷あいである。
 民俗学では坪は組と同じ意味だという。組は戦争以来、隣組という呼び方で、その区域や機能が改めて認識され、町村行政の未端機構として重要な役割を果している。隣組という呼び方が全国的に行われ、その性格も略々一定して来たのは、いうまでもなく戦争のためであったが、このとなりという言葉はまことにうまくこの地域団体の性格を現わしている。「遠くの親戚より近くの他人」とか「向三軒両隣」とかいう言葉でよく分るように、農村社会では、あらゆる生活様式が相互扶助的になっている。冠婚葬祭はいうに及ばず、お日待という祭礼を行ったり、道普請をしたり、橋をかけたり、火災や水難や疫病や不慮の災難に助け合ったり、家の建築に手伝ったり、数え上げればきりがない程お互に結びつき、協力し合った生活が行なわれている。然らばそのような緊密な結びつきの紐帯は何であるかといえば、隣同志ということである。つまり同じ地域に住んでいるということなのである。両隣や前や後の家が血縁的につながりのある場合が可成りある。然し隣組の場合この血縁関係は殆んど無視してよい。結びつきの紐帯は、隣から隣へと続いて住んでいるというその地面の上の関係だけである。つまり地縁関係にあるのである。だから隣組である。隣という関係の結びつきである組というこの地縁団体の格性をまことによく物語っているのは、隣組という言葉である。
 それならこのような地縁団体である組はどうして出来て来たのか。現在行政区画の単位名となっている字(大字)は昔は独立の村であった。その村の中は幾つかの字に分けられていた(今これを小字などという)この字はその規模の点から、つまり大きすぎもせず、小さすぎもせず、その地域に住む人たちが相互扶助の協力組織を作る上にきわめて都合のよい地盤であった。そのためこの字を単位として組が構成されている場合が多かった。但し前述のように江戸時代までの字は、明治の地租改正の時に、図面の都合でその名を失ったものが多いから、現在の土地台帳の字名がそのまま、組の名前になっているとは限らない。それよりもむしろ、昔の小さい字名が、組の名になっている方が多いようである。例をあげるまでもないが、菅谷では、上組、下組などあり、これは昔の字名であることは周知の事実である。この小さい字のことを「名(みよう)」と呼ぶ地方があるという。本町では「何々みよう」という呼び方は全くないようであるが「風土記稿」では各村の字名というべきところに、
 吉田村、「小名」上、下、長竹、前谷、沼下、越畑村、「小名」櫛挽、大槻、深谷、島、大木
というように、「小名」という言葉が使ってある。このことから考えると、本町で字といっているものは、「風土記稿」の編者から見ると「名」と称すべきもの、即ち他地方の「名」に相当するものという考え方をとったものと思われる。即ち「名」の呼び方はないが「名」と同じ性格のものがあったと考えてよいと思う。
 そこで「名」というのは何かといえば、これは荘園の小区画の意味で、土地を開墾して荘園を設定する場合、はじめて原野に入り込んでこれを開発する人たちは、その開発の区画について名をつける場合、一々本来の地名を知らないし、又つける名前も多かったから、便宜上、しばしばその下受開墾人の名をとってその地名としたのである。これは便利な方法である。新編武蔵風土記稿にある国延名、恒弘名などはこれである。国延という人が開いた土地、恒弘という人が開いた土地がそれぞれ地名となった。これに似たことは近い時代にもある。天明年間に今の鎌形耕地の木の宮を開発して水田にした。人々はこれを惣左衛門新田といった。簾藤惣次郎氏の数代前の先祖である。志賀村の源八等もこれに類するものであろう。
 太郎丸なども人名であるからこの「名」に当るものではないかと気がつく。「風土記稿」には、「古は水房村の内であったが、寛文五年検地の時、分れて枝郷となった。此の検地の時、太郎丸という村民が案内したということが水帳に書いてあるから、この太郎丸が開墾した土地であるためこれが村名となったのでもあろうか」といっている。開墾したのがこの太郎丸かどうか、疑問はあるが、開墾者の名をとった地名であると想像している点は正しいと思う。
 「名」に当る地域を郷と呼んでいる地方もある。郷は荘に対する語で、もとは国領を意味したが、後には荘園の一区、つまり普通には「名」というべき地域を郷というようになったのもある。そういえば「風土記稿」に広野村には上郷、中郷、下郷があり、越畑や鎌形に、内郷、外郷があり、又大蔵村は大蔵郷に属し、将軍沢村は玉川郷、鎌形村は鎌形郷に属するといっている。これ等の郷は村というべきものを強いて郷としたのだろうともいっている。これ等は国領の郷の系統ではなく、荘園系統の郷と考えるべきであろう。
 このように「名」という地名は本町にはないが、これに相当する地域が、別の名で存在していたと考えてよいと思う。この名や郷に当るものが坪である。坪も又荘園内の一区画である。ところがその坪の方もあまり流行しないで、組という呼び方が支配的になった。そしてその組も地域の区画を指すより、その地域団体の機能の方を重視するよう変った。例えば菅谷上組といえば、上の地区よりも、上の地域に住む人々の結ぶ団体名のようになった。しかしもとは地域の名であったのである。こうして組と坪が、小さな字の呼称であるとすれば、坪の地名もあってよい筈である。志賀村の蛭坪、市の坪はその名残りではないか。そして「坪」という語は、現在も「その土地」「地元」の意味に用いられている。「坪荷」をこなすといえば、製粉工場では、地元の小麦を挽くことであり、製材所では村内の原木を製材することである。「つぼ庭」は屋敷内の庭園である。坪というのは、組とか字とか村とか、とに角私たちの住むその地域を指すものである。蛭と市の限定語の意味は計り兼ねる。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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