第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
四、村の地名
第5節:特殊な地名
信仰に関係あるもの
▽社宮司
信仰に関係のある地名として、もう一つ社宮司についてのべよう。社宮司の地名は、志賀村の社宮司、吉田村の社宮司、越畑村の社宮寺の三ヶ所である。これも解りにくい地名である。読み方は三者とも「シヤクジ」といっている。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
私たちはこの呼び方から、東京板橋の石神井(シヤクジイ)を連想する。これは文字は石神であるが、井をとれば「シヤクジ」で殆んど私たちの呼び方と同じである。そこで石神井のいわれを調べてみると、石神は釈氏、杓子などとも書くが、実は石を神体とした祠であるという。この祠は下石神井の北原というところにあって、社額には石神と書いてあり、神体は石の棒である。これは秩父緑磐の類で、長さが二尺三寸あるが一方の端は欠け落ちている。横断面は楕円形であって長径は四寸位あるという。新編武蔵風土記稿では「石神井村は昔三宝寺の池から石剣が出たので村人が社をたて、この石剣を神体として崇め祀った。この石神の名前をもって村の名としたのである。」と説明している。本町の杜宮司もこれと同じで、石神の信仰から発した地名だと考えられる。今三ヶ所とも地名だけで、祠はあるが石の神体はない。然しこのような特殊な地名はそれ以外に考えようがない。そして岩石に神霊がこもるという信仰は日本の国民に共通のもので、各地に石を祀った社が存するのであるから、それが当然本町にもあってよいのである。赤ん坊の食いぞめの時、お膳に石をのせる風習は、この委員会でも話題になっているし、家々の氏神の中には石を御神体のように安置しているものや、氏神様の祠の中に小石を沢山供えてあるのも珍らしくなく、すべて私たちのよく見るところである。これ等は私たちの祖先が石そのものに神秘な力があって、疫病や禍いのもとを排除すると考えたり、石は神様の依代(よりしろ)であると考えたりした証拠である。社宮司は石神から起った地名と考えてよい。
斯うなってくると、志賀村の石合、千手堂村の石堂、吉田村の岩殿沢、勝田村の石神、広野村の石倉などにも登場を願わなければなるまい。志賀の石合は大木ヶ谷戸の区域に含まれている。この地名は前にも出たが畑の間だから畑合い、林の間だから林合いというのとは若干異った意味を含んでいるようである。ただの石と石との間というのでは何の関心も起る筈がない。個有の地名になり得る要素はない。この石は特別の石でなければならない。その地にだけあって名高く、他の場所には滅多にない種類の石でなければならない。とすれば容積が巨大であるとか、形が奇怪であるとか、常に水を含んだように濡れているとか、他と異った特色を備えたものでなければならない。このような石は、石の霊力を信ずる国民性とすぐ結びつくのである。石合の地名も、そのような石に関連して発生したと考えられるのである。千手堂の石堂、広野の石倉も又、石の崇拝と関係する。前述のように石は神の依坐(よりまし)でもあったが、とに角霊力あり神秘な性能を有するものである。さて一般に神を祀り、神の降臨を願う場合は清浄でけがれのない場所でなければならない。そこで石を積み石で築けば、とりもなおさず、そこにはけがれない神聖の場所が出現するのである。これが石を積んだ石倉や石堂であり、それが地名となったと考えてよいと思う。岩殿沢はこれとは若干性格が異ったもので、甲斐の岩殿は岩窟が殿閣のような形をしているのでこの名があるという。勿論その奇勝を異として、神祠のあることは同じである。吉田の岩殿沢は地均しをして、岩殿の地形は見られない。石神に至っては正しく、石を祀った神よりその名が出ている。近くでは神保原の石神は「石神村は石剣を祭れる社あるに因る。其石の長き三尺に余れり」(新編武蔵風土記稿)とあり、遠江の石神は「下阿多古村の大字にして一石を神体とするとぞ……明治十八年(1885)頃、民家の辺より石棒を発見す。長二尺三寸、周一尺四寸量四貫五百匁」。千葉県夷隅郡の石神も、同じで、この地方は殆んど石がないのに、この石神の字だけは、数ヶ所にまるで湧出したような大石があって小屋の様に見える。村民がこれを畏敬して神に祀ったという。日本全国を尋ねれば石神の地名は多くあり、その発生の起源は皆右【上】のように一致している。勝田村にその伝えがないとすれば、これは忘却の彼方に去ったものと解する外ない。地名の起原は他の例と同じものと考えてよいだろう。