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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第5節:特殊な地名

信仰に関係あるもの

▽塚

 民間の信仰に関連して生じた地名に塚がある。塚というのは、祭壇として築かれた丘状の盛り土や、積み石のことである。日本人は清浄にして汚すべからざる場所、神秘的な場所として、山や森、自然の丘陵、樹木、石カハラなどを崇拝する習慣があるが、これに対して人工で造った聖地、霊地が塚である。「ツカ」は「ツク」すなわち「築く」という言葉に関係するもので、人工的に造りあげたものというのが本来の性質である。塚が神聖なものとして作られた理由は、元来山や丘を聖地として祟め、そこに神霊が存在すると考えてきたので、その山や丘の形を真似て小規模に造立しこれを神霊祭祀の場としたのである。祭り場としては、平坦な地面の上よりも、小高くきわだった所の方がふさわしく思われるからである。別項で、私たちの屋敷には、その南西の辺に必ず築山を持っていることをのべた。これは自然の風物に特別の愛着をもつ国民性のあらわれと見ることも出来るが、僅か二、三本の松の木を植えたり、形も定らない岩や石を数個並べて築山と考えている。その感覚はいわゆる庭園とは、異質のものがあるようである。「築山は神の遊び場だ」という考え方をのべた。築山は塚と同じように聖地の意味をもっていたと考えてよいと思うのである。
 さてその塚を地名とするものは、境塚(平沢)、供養塚(鎌形)、千部塚(志賀)、茶臼塚(将軍沢)、百八燈塚(遠山)、富士塚、二塚(古里)、金塚(広野、勝田)等がある。
 平沢の境塚は、文字通りに解すれば境界の塚である。塚は多くの場合村の境に築かれている。この塚を祭りの場所として外敵の侵犯を防ぐという目的だった。外敵というのは人間だけでなく、目には見えぬ悪霊、疫病などのことである。村の境にはこのような場所や、行事を起源として出来た名前が沢山ある。横道に外れるが志賀村の浜井場という地名も今の人には解釈が出来ない。然し実はちやんとした由来がある。浜は「ハマ」破魔である。破魔射場と書く場所が多い。「ハマ」とはどんなものであったか、とに角、村境に集って「ハマ」の投げ合いをする。相手の村深く投げ込んだ方が勝ちとなるのである。浜井場は今の久保前であるから相手の村はさしづめ杉山村ということになる。境塚もこれと同様の性格のものである。然し平沢の境塚は、元、公会堂の手前、県道の北側であるから村の境ではない。そこで別の解釈がおこる。つまり境塚は経塚であろう。墓の近くに経塚と呼ぶ場所が各地にある。供養塚と同じようにここで死者をまつり、経典を読んで供養をしたのだという説明がついている。平沢の境塚の側にも墓地があり、塚には今、三猿を刻んだ庚申様の碑が立っている。経塚と考えた方が適当のようである。鎌形の供養塚もその傍に古い墓地がある。同じ性格のものであろう。
 志賀の千部塚は鶴巻の一部であるが、検地帳には千部経という字名がある。両者同じものであろう。この二つを合せて千部経塚とすればその意味が明らかとなる。千は数字の千そのものではなく、多数の意味を現わしたものだろう。数多くの経典を読誦したとか、納め埋めたとかいう伝説がもとになった地名であると思われる。
 遠山の百八燈塚は、仏教で説く百八の煩悩に因んで出て来た名前である。百八煩悩説は眼、耳、鼻、舌、身、意の六根が、色、声、香、味、触、法の六塵に接触する時、六根の好、悪、中の三段階に従って、十八の煩悩を生じ、六塵にも、苦、楽、捨の三種があって、これも十八、合せて三十六の煩悩となる。これが過去、現在、未来の三世に亘って一〇八の煩悩となるわけである。この百八煩悩に因んで百八の除夜の鐘とか、百八の数珠とかが現われた。百八燈は百八基の燈火を神社、仏閣、又は道端等に献ずる土俗である。遠山の百八塔塚は斯うした信仰の跡であろう。但しこれも正確に百八基の燈火を捧げたか否かは不明であるが、燈籠といわれる程のものでなく、極く簡単なしかけの燈なら実行出来ないことはない。神仏といっても、もともと穀物豊饒の祈りであったと考えられる。将軍沢村に百八将軍前という地名がある。百八人の将軍ではあるまい百八の燈火を供えた祠か堂でもあったためにこの名が起ったのであろう。
 同じ将軍沢村の茶臼塚は、「沿革」には記載がなく、「風土記」の小名の部に「ラウス塚、茶臼塚ともいえり」とある。この塚と田村麻呂の古墳との関係は「沿革」にも「風土記」にもない。地元でも塚の存在をしらない。ラウス塚の意味は判じ難い。茶臼は茶の葉を碾(ひ)いて抹茶とするのに用ふる石臼である。慶長十九年(1614)大阪冬の陣に、徳川家康がその本陣を茶臼山に布いたというのは有名であるが、もとは古墳であって荒陵(あらはか)といっていた。その形が茶臼に似ているというのでその名を得たのであろう。お茶が日本に伝ったのは鎌倉のはじめで、喫茶養生記を書いた栄西が、宋の国から持ち帰ったのだという。従って茶臼の名もその後生じたものである。名前は新らしいが山や塚そのものは古くからあり、それに茶臼の名をつけたのであろう。茶臼山は不思議に、軍陣に関係がある。信濃川中島の茶臼山は平地の田圃の中に特起し、ここに登ると周囲の山川が歴々として一望の中におさまる。それで上杉謙信がここに陣営して、武田信玄の妻女(さいじょ)山に相対したといっている。これも古墳らしい。陸前、桃生郡の茶臼山は桃生柵の址だといわれている。桃生柵は、平安朝のはじめ藤原仲麻呂が陸奥国の浮浪人を徴発して造営に参加させたという伝えのある柵であって、朝廷の新しい拠点であった。斯うなると将軍沢の茶臼塚も、利仁将軍や、後の宗良親王などに結びつけたくなるが、地元にはそのような伝えはない。茶臼山と軍営は偶然の一致であろう。然し茶臼山と呼ばれる山が、平坦地に屹立したり、特色のある形であったりして、人の目を引きやすいすがたであったことは共通しているようである。戦に臨んでは軍営として利用され、平和の時には神仏の霊場となるべき性格を備えていたことは見逃せないと思う。
 富士塚は富士の行者からはじまった名前である。富士山崇拝者で組織した講を富士講といって、講には先達があり信者は修験者のいでたちをして白衣を著し、鈴を振り六根清浄を唱えて、七、八月の間に富士山に登った。また災厄や病気に悩む者のために祈禱し、講中相集って焚上(たきあげ)、防(ふせぎ)、摘(つまみ)などの修法を行った。先達や行者は富士登山の度数が多く、祈禱の効験があらたかであるとして尊信された。この行者が富士垢離といって、河水に禊し、富士権現を遙拝し、一七日間別火斉食をする。その行者の庵がこの塚の上にあったのであろう。これが富士塚である。或いは又、富士講の登山記念碑などが塚の上に立てられてこの名が生れたことも考えられる。
 富士登山の道者が現われたのは足利時代からである。塚の名はその後のものということになる。
 二塚は、前方後円の古墳を二子山などと称するところもあるので、それとの関連も考えられるが、古里村で古墳群のあるのは、岩根沢地区であるから少し距離がある。そして岩根沢の古墳は円墳であるから、前方後円の古墳ではないと思われる。丸い古墳かもしれないがとに角、目印しになるような塚が二つあったのであろう。現在もいくつかの塚が残っている。これが今は字名となっているのである。
 金塚は前述したように、カジヤやイカケヤの住居の場所であり、作業場のあとと考えてよいであろう。志賀の山森田という不思議な名前は、土を盛り上げて山のようにしてそこに祠を祀り、これに供える田があったと推察することも出来るのではないか。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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