第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
四、村の地名
第5節:特殊な地名
信仰に関係あるもの
▽免・面
免又は面のつく地名は次のとおりである。八幡面(志賀)、仏句面、とうか面(平沢)、油免、番匠面(鎌形)、行司免(大蔵)、焼面(将軍沢)、油免(勝田)。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
これは神仏の信仰に関係して起った地名である。江戸時代は石高に対して一定の割合で年貢米を徴収した。この石高に対する年貢率を、今でいえば税率のことを免(めん)といった。然し本来の意味はそうではなく、年貢として徴収した残り、即ち作徳米を、百姓に免じ与えるという意味であった。ここに地名となった「めん」もこの意味である。つまり神仏を祭るために、特定の田畑の収穫物を免除して、祭祀の用にあてることを許した。その田畑を呼んだ名が地名にひろがったのである。免除の割合は様々で、除地と称して、全額を免除したものや、半分、三分の一を減免してその分を神仏に奉るというのもあった。これ等の田畑の耕作は共同で行ったり、番に当った者が順にやるという方法をとったりした。
さてそこで前記の地名を見ると、八幡面は八幡様の費用にあてた田であることは明らかである。志賀村には今、八幡様はない。八宮神社はもと五社明神といって、村民が五組に分れてそれぞれの氏神を崇敬していた。これが合併して八宮神社になったのだという。五社明神の祭神は天照大神・保食神・諏訪明神・上、下照日女命であって、応神天皇・神功皇后の名はない。然し五組の氏神の中のどれかが八幡様と呼ばれていた時代があったのであろうと思う。八幡面はその八幡様の祭祀に供する田であったと考えられる。八幡面の位置は現在不明である。
平沢のとうか面は「燈火面」であろうから、燈明料となった田であり、鎌形の油免も全く同じである。然しこれをすぐ平沢寺に結びつけたり、八幡神社に結びつけたりすることは出来ない。少くとも江戸以後の関係とは考えられない。何故なら平沢の実相院は早くから朱印地を持ち、持正院の支配となってからも幕府から六石五斗の朱印地を与えられていた。又八幡神社も社領二十石を授けられている。従ってこの外に、燈火面や油免を設定する必要はないわけである。私たちはこれ等の「面」のおこりは、今、村の鎮守社となっている大きな社にも勿論関係はあるが、そればかりでなく、もっとそれ以前の小規模の神仏、村内の個々のグループで祀っていた氏神、つまり一家一族の守り神のような神仏に対する祭祀にも関係しているのではないかと思う。自分の田を、何々様の神饌料ときめて、その収穫を毎年奉納し続けていた。それが検地の際に認められて、いわゆる除地の取扱いをうける。除地は田畑屋敷など無税の証書を有し、前々から検地帳より除外した無税地である。
これ等の古い慣習が認められない場合は、領主が年貢の中からこれを支弁した。吉田村の天保四年(1833)の年貢皆済目録には、この年に徴収すべき年貢米の中から「米三俵 宗心寺へ納、餅米二斗 宗心寺へ納、米弐升 同寺へ御初尾納米 弐斗嶺明神祭礼米ニ納」などという内訳がついている。これは年貢納入の時に差引くものであるから、集荷したものを納めたのであろうが、この奉納米を作る田は定っていたと考えることも出来る。古い慣例に従って、一応領主が肩代りをして奉納するという形式をとったと考えてもよいだろう。面の地名は古い小さい神仰にも関係していると思うわけである。
鎌形耕地の都幾川寄りの一劃に番匠面がある。番匠とは大工のことである。都幾川村の番匠は昔慈光山の大堂を創建する時、伊豆国から工匠を呼んでこれに当らせ、落成の後、工匠をこの地に住まわせたとか、慈光寺を建てる時、源頼朝から番匠面として寄付したのだとかいい、そのために番匠という地名が起ったというのであるが、他村のことはさておき、鎌形の番匠面は一体どんな起源によるものであろうか。都幾川村の番匠流に、八幡神社建設の時大工の費用にあてたのだといえば簡単である。では寄付したのは誰か、ということになるが、八幡神社縁起によると、この社は延暦十二年(793)に坂上田村麿が束夷征伐の時、宇佐八幡を塩山の頂上に勧請したのであり、延暦十六(797)年に奥羽下向の時に社殿を増築したとある。然し番匠面の寄付者を田村麿とするわけにもいくまい。その後、中古年代は不明だが、兵火にかかって社殿が焼失した時、現地に移したというから建設の年代も、従って寄付者も判らない。縁起では頼朝や政子の崇敬も厚く神田を寄せたとあるから、番匠面も一応右大将に結びつけたいところであろう。現在の社殿は寛文四年(1664)焼失後建設したものである。番匠面は都幾川の沿岸の低地で住居の土地ではない。従って大工の費用にあてた田である。建設工事は毎年あるわけではない。燈明田とはちがって、ある時期一時の必要に応じたものである。従ってある時に何かの建設の時の経費にあてた田であるということだけは間違いないであろう。それがもとで番匠面と呼ぶようになったのであるが、その時代も、建設工事も、八幡神社であるか、又、それ以外のものであるかは判然しない。少くとも寛文四年焼失後の再建に関して生じた地名ではないと思う。
大蔵の行司免は水田地帯である。名前のとおり行司に与えられた土地であったろう。行司はもとは行事と書いて、相撲を司るものの職名であった。相撲が営業とならなかった以前の行司は、勝負を判断し、儀式を執行する重要な職であった。相撲は元来神事と関係の深いものであり、田植祭りに目に見えない精霊(しようりよう)を相手に相撲をとる一人相撲や、氏神の祭礼に頭屋(当番の者)や、宮座の代表が相撲をとる例などが各地にある。行司免はこのような神事の経費を支えるために用意された田圃であったろう。行司免といっても行司だけに限定せず、相撲神事のためと考えてよいであろう。「風土記稿」には大蔵村の神社として、山王、天神、愛宕、天王、神明、稲荷、諏訪、神明の八社があげてある。相撲の神事が何時頃、どの社で行われたかは明らかにすることが出来ない。
鎌形八幡の流鏑馬(やぶさめ)の神事は大正の初期まで行なわれ、近隣に有名であった。流鏑馬は馬を馳せながら弓で的を射る競技であり、中世武人の間に盛んに行なわれた。これが神事として催される場合には一年の吉凶を占う年占いの意味があり、豊年祈願でもあった。方形の板を忌竹で挿んで立て、三箇の的に三本の矢を射る。射られた矢は魔除けになるといって、争ってひろい持ちかえる。この流鏑馬によく似たもので「ビシヤ」という神事がある。文字で書けば「歩射(かちゆみ)」つまり「ブシヤ」である。春の祭りに的射を行い、終って酒食を共にする風が残っている。この歩射を行う祭りの用米を弁ずるための田がきまっていて、毎年当番が交替で耕作する。それでこれをビシヤ田といった。尾社田、毘沙田と書いた地名が存在するのはこの田の名残りである。川島に「びしや伝」と称する一見不可解な地名がある。然し「歩射田」と考えれば意味は大へんに明瞭になるので、行司免のついでに書いておく。
平沢の仏句面は、仏の供養の費にあてるための田圃である。仏供田という地名と同じである。仏を敬う風習の盛んであったことを示している。 将軍沢の焼面だけは一寸趣がちがうのではないか。ここは一町田の区域である。古く、焼畑、切畑が行われたので特別の免租措置がとられた。それが地名の起源だと考えることは出来ないだろうか。然し焼面は、志賀の焼米田と同じように、水口祭りなどに供える焼米用の水田であると考えることも出来る。いずれとも決し難い。
尚地名ではないが、「面」の意味が拡大されて、隠居面などという語も出てくる。隠居用として本家から分割した田畑で、本家に対して治外法権的な性格をもっている。「めん」の意味に通じている。