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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第5節:特殊な地名

信仰に関係あるもの

▽浄心場

 平沢村に浄心場という地名があり、「しょうじんば」と呼んで清水が出ている。一方太郎丸村七郷県道に「勝進橋」がある。これはもとは「精進橋」と書いてこの附近は精進場であった。岩の間に首まで入る位の深みがあり、清浄な川水が流れていた。富士講や大山講の人達が参詣に出かける前に、必ずここで一週間位の精進をした。その行法はよく分らないが、とに角水につかって身心を浄めたのである。平沢の浄心場もこれと同じような地名であろう。ここは清水が美しく澄んで身体をきよめるには恰好の場所である。ところでこの精進という語は仏教の用語であった。これが普及して日本固有信仰の物忌をも精進というようになった。それで言葉は同じでもその内容には大きなちがいがある。その相違の一つは、固有信仰では水の浄祓力(じょうばつりよく)を強く考えることである。これに対して仏教ではむしろ香を重んずる。禊は水の浄祓力によってけがれを洗いさる行事である。
 ところが平沢は天台宗の寺院成覚山実相院があり、三十六の堂坊が存したという。すると浄心場は仏教関係の精進勤行(ごんぎょう)の道場であると考えるのが当然のようであるが、私たちは前述の固有信仰と水との結びつきからその地から清水が湧き出していることなどと合せて、矢張り日本式の禊の場所であったと考えたい。ただ然し次のようなこともあり得る。
 それは、平沢寺と不動堂と白山神社の関係である。「風土記稿」には「今村内ノ不動堂ノ不動ハ古ノ本尊ニテ、又白山ノ社モ其頃ヨリノ鎮守ナリトイフ」とあり、又、不動堂は、慶安二年(1649)から六石五斗の御朱印を賜り、白山神社の別当は「持正院」であると説明がある。要するに神仏混淆(こんこう)の時代であったから、不動堂、白山神社を「持正院」が支配管理していたのである。この管理者が別当である。持正院については「本山修験、葛飾郡小渕村不動院配下顕密山不動寺ト号ス」と註してある。本山修験とは、園城寺末聖護院を根拠とする天台系の修験道の一派で、真言系の当山派と相対するものである。
 修験道というのは、中世の初期に成立した山岳信仰の一形態である。山に登って身心を修練しその霊気に打たれて不思議な呪力を獲得するという信仰や、そういう呪力を得た行者(山伏)そのものに帰依尊頼する信仰である。秀嶺(しゅうれい)の多いわが国には、古くからこの山の行者が各地にいたが、これが寺院の客僧として、寺に寄寓(きぐう)するものもあらはれ、ここで密教の呪法を学んで、台密、東密の教派に編入された。だから山伏は密教の呪法だけでなく、本来の精進、潔斎、参籠、奉幣などの神道儀礼などもおこない、すぐれた祈禱師、呪者として、一般庶民や地方武士の崇敬をうけた。以上は学者の説に基いたものであるが、これによって考えれば、平沢の「持正院」も矢張り修験道固有の神道儀礼を行ったと考えてよいだろう。斯くして浄心場は仏教の精進に関するものでなく、神道の禊に関する行事の場所であったと断じ得るのである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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