第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
四、村の地名
第5節:特殊な地名
地形地物によるもの
▽島
海や湖のない本町の丘陵地帯に島の地名の多いのは、一体どういうわけだろうという疑問が誰にもあるようである。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
南、北中島(鎌形)、中島(千手堂)、田島(志賀、根岸、吉田、杉山)、鼠島(志賀)、島(越畑)等がこれである。
字書を見ると、島とは先ず第一に、まわりを水で囲まれた土地とある。ところがその外に周囲に際限のあるせまい場所という解が出ている。この解に従えば、山の中で水に関係はなくても、周囲を何かでかこまれていれば島という名は出て来てよい訳である。然しこれよりも尚前掲の地名によくあてはまる解釈がある。即ち、島とは川荒によって新たに生じた地をいうというのである。この方が成程と、うなづかれる点が多い。鎌形の中島は、都幾川が玉川村【現・ときがわ町】から東流して、北中島の百穴の台地につき当って北に進路をかえ、次いで天神下の崖に激突して右折し、再び東流し、「お新家の背戸」から九十度左折して八幡下に向っている。百穴からお新家の背戸にいたる川の沿岸は、川の氾濫で、一面の河原になっている。この流路は河岸工事や堤防によって、今、略々そのコースが一定しているが、一旦大洪水になると、河水は両岸の台地の下まで押しよせ、崖を崩し、畑を埋め、水田を押し流していった。私たちの記憶にのこるものだけでも、明治四十三年(1910)の大洪水以来、屢々こうして、田畑の地が河川敷となったり、これに又肥土(へどろ)が堆積して、肥沃の田畑に戻ったり、このようなことがくり返されて来た。洪水に流された田畑の崩れ目を見ると一米以上二米にも近い肥土の層が出来ている。これは正に川荒によって出来た新らしい土地である。この土地に中島という地名が起った。東と西の台地の間に出来た島という意味であろう。この中島の名はその後拡大されて、遂に東の台地までのぼり北中島、南中島という、広い地域の名称となったのである。
越畑の島も、深谷から出たところで、土地が平で島のような形をしているという。深谷の水によって、長い年月の間に堆積した新らしい土地であろう。平であるということは水による新しい堆積であることを示している。島は川荒などによって出来た新らしい土地であるから、一般に肥沃の腐蝕土の堆積地なっている。そこで水のある限り、水田として利用される。田島という地名が多いのはこの故である。鼠島の意味は不明だが、この地域も水田地帯であることは同じである。
然し周囲を何かで限られた地で、島と称するのもないわけではない。千手堂の中島などはその例であろう。ここは槻川に面する洪積台地の緑辺で、数条の水路によって刻まれている。