第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
四、村の地名
第5節:特殊な地名
地形地物によるもの
▽屋敷
何々屋敷という地名も相当多い。萱場屋敷、窪屋敷、上屋敷、西屋敷、東屋敷(志賀)、古やしき(川島)、しやらく屋敷(鎌形)、兵庫屋敷(平沢)、居屋敷(太郎丸)、西村屋敷(古里)、たなべ屋敷、屋敷(吉田)等である。屋敷というのは、住居の母屋、附属建物、庭などすべて日常の居住に必要な建物のある敷地、地面のことである。権兵衛も、太郎作も区別はない。いづれも屋敷である。その全ての屋敷の中でこれだけが何々屋敷として地名となったということには、何か特別の理由がなければならない。「沿革」中、志賀村の古蹟に岡部太郎作陣屋趾の項があり、「これは村内の東方字久保前旧萱場屋敷にある。岡部徳五郎が釆地を没収された時、その用人の多田平馬が主君岡部氏をこの地で養った。この敷地は多田氏の所有となり、今もその子孫が住んでいる。」と書いてある。県治要略では陣屋というのは幕府の代官の住む第宅である。屋敷とも役宅ともいったと説明している。旗本の場合も同じである。旗本は江戸に住み領地の陣屋には代官や手代がいて実務に従った。そこで一番手っ取り早く、公式的に考えれば、岡部太郎作の陣屋を指して、村民は萱場屋敷といい、一般住民と異り、領主の屋敷の名であるからこれが地名に転じたのであるという筋道になる。附近に萱が多かったのでその名が出来たのであろう。一応これでよい。だから屋敷という地名の起りはこのように一般百姓とは異った何か特別の立場にある人の住宅地がもとになっていると考えてよいだろう。ところで志賀村の場合、岡部太郎作陣屋、イクオール、萱場屋敷であったかどうかは、検討の余地があると思う。志賀村にはその外に、窪、上、東、西の四つの屋敷がある。岡部太郎作は天正十八年(1590)徳川氏入国の時にこの地の知行主になったとあるから、岡部氏陣屋を萱場屋敷と呼び、これが地名になったと考えればこの地名は江戸初期からのものである。比較的新らしい。とすれば、他の四つの屋敷の名も矢張り同じような理由で、同じ時期に地名に定着したと考えたい。同じような理由とは、岡部氏関係の屋敷ということになるが、それでは数が多すぎる。当時菅谷志賀は一ヶ村で、同じ岡部氏の釆地であったが、菅谷村にも久保に御陣屋裏という地名がある。この辺に陣屋があったと考えてよい。従ってそんなに数多くの役宅を持つ必要はないわけである。それで岡部氏とは必ずしも関係はないのではなかろうかということから、萱場屋敷の地名も直接に岡部氏陣屋がその発生の原因とはなっていない、という考え方に到達するわけである。志賀村の五つの屋敷地名は岡部氏よりも早く出来ていたのではないだろうか。それなら一般百姓と違った特別の人達とは誰であろうか。私たちはこれをこの地区の大地主、土豪ではないかと考える。杉山村の例で見たように、太閤検地前は、各村に数人の大地主があり、それぞれ広い屋敷を構え、家人や下人を養って、所有地を耕作していた。これ等の人の屋敷が地名の起源となったのではあるまいか。菅谷村の御陣屋裏は、久保であり、萱場屋敷は久保前で、偶然のように字名が一致している。これは前述のように久保の地形が勝れているからである。その他窪屋敷は辻、上屋敷は仲町であって、いづれも志賀村の穀倉地帯である。大地主の割拠に恰好の地といわなければならない。屋敷の地名は岡部氏より早く、そして土豪の屋敷を起源としたものであると考えるわけである。その他の志賀村の屋敷の呼び名は位置や、地形によったものである。詮索(せんさく)の要はないであろう。さて鎌形の「しやらく屋敷」は何のことだか全く分らないが、他は兵庫、西村、たなべ等、人名と解してよい。単に居屋敷、屋敷というのは別に冠称をいわないでも、その土地に唯一つで、他と紛れるおそれがなかったからであろう。尚念のため西村も、たなべも古里村、吉田村の江戸時代の領主にはあらわれていない。いづれも、検地前の大地主の屋敷であったと思われるのである。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)