第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
四、村の地名
第4節:地形と地名
山と原
ヤツやサハやイリと表裏一体にあるものは当然、山、台、峯、尾根、坂などである。従ってこの地名も各村に多い。これは地形的には問題はない。いづれも地上の高地である。そして地形の特色によって、山、台、峯というようにその名を別にしたという様子も見られない。といってもその内容は様々で、その高さや、形状には関係なく随意に山の地名がつけられたようである。菅谷村の寺山は、県立農業センターの地域で、これなどは、山丘の山ではなく山林の山である。高地でなくても、樹木の繁茂しているところも山といっている。山といってもその地形は様々である。そして山の地名が多いのは人々が山に親しんだからである。山が人間の生活に何かしらの恩恵を与えていたことを示しているのである。私たちの祖先は山に対して自然の脅威という観念をもたなかった。山は生活や生業の資源の供給地であり、時には寒暑を和げる住所であり、神や仏の在す霊地でもあったのである。それで次のような地名が生じたのである。寺山は前述のように菅谷村にあり、その外、寺山(遠山)、比丘尼山(千手堂)、神山、道参山(古里)、神田山、天神台、宮山(吉田)、白山、堂山、富士山(越畑)、鹿島台(勝田)、寺台(広野)などがあって、これはいづれも、神仏の祠や堂がまつられてあったのであろう。住所としてよろこばれたことは、日向山(平沢、遠山)などといい、これは南向きの山ふところでいかにも温暖で別荘地にもなりそうな地形であることで知れる。これが、軍略上の要地となれば、城山(越畑、杉山)となって個人の住宅よりも大分規模が大きくなってくる。遠山村の物見山はもと軍事上の必要から出た名だろうが、平和の時代には、行楽遊覧の地を思わせ、ことに勝田の花見台となると、これは明らかに桜花の名所ででもあったことを想像させる。
山は生活や生産の資材の供給地であったことは入会地の項でのべたところである。然しその資材に基いて呼ばれた地名はない。強いて求めれば志賀の芝山であるが、これも芝を採ったために生じた名であるかどうか疑問である。そしてこのように山の生産物の名がその地名になっていないということは、どの山も皆同じように、それ等の資材を供給していたからで、山といえば、木も薪もボヤも下草や、落葉も、そこに行けばこれを採取出来るに定っていたからである。とくに資材の名をもって呼ぶ必要はなかった。又向山、前山、丸山、北山、裏の山というごく通俗的な地名に住民の親しみの気持をハッキリ汲みとることが出来る。但し例外もある。
志賀の蚊山、鎌形の塩山、根岸、将軍沢の仕止山、古里の御領台、道参山、吉田のとの山等は特殊な事情があって出来た地名であろう。然し、然るべき解明の目途がつかない。
原のつく地名も各村にある。菅谷地区の方に何々原という地名が多いのは、七郷地区より土地の起伏が少いためである。つまり原は平野を意味しているからである。ところで此の地方では、原は「ハラツパ」などといって、林藪や、耕地のない原野をいう場合が多い。「沿革」に記載のある原野をあげると、「菅谷村=境原三反三畝、全地平坦、芝草欝生す」「志賀村=金平(かなっぴら)の原、三町三反、全原平坦なるも少し東に傾斜す。茅草生茂す」「平沢村=遠道原一町二反、全山四方へ傾面す、芝草欝生す」「千手堂村=小千代の原、四町二畝、中央に耕作道あり。該道より南は平坦なり。北は西北に傾斜し……柴草生ず」「鎌形村=大ヶ谷原、二二町六反、全原平坦にして少しく高燥の地あり 八方に傾斜して数条の小谷あり 萱草生茂す」「大蔵村=不逢ヶ原、八町一反、中央以北は少しく北東へ斜面す。中央に一条の谷あり、平素は小泉湧出す。以南は平林にして将軍沢村不添の森に属せり。中央以北は秣場にして以て南は雑木生ず」「将軍沢村=仕止カ原 三二町二反、全原平坦なるも少しく北面に傾斜す。中央に一条の渓間に小田数多あり。芝草欝生す」とある。これは明治初年の景況であるが、何々原といはれるものは、すべて原野の状態で広く平坦で、萱や、芝草の欝生していることが特色である。然し今問題とする何々原という地名は、この原野、ハラツパとは可成りにちがった内容のものである。この原には住宅もあり、田畑も開かれているのである。単なる草原ではない。では何故原という地名になったのであるか。これはいうまでもなく開墾前の平坦な地形と草原にもとづいたものなのである。然しこの原は比較的民家の近傍に存在した。田畑こそ開かれてはいなかったが、肥料源の芝草などは、専らこの原で採取した。然しそのうちに人の数も増加して耕地の拡張にせまられたり、為政者の開発政策などが推進されるようになったりして、その草原が開かれて田畑となったのである。草原の場所は平地で木や石が少く開拓には容易である。それで開墾地として先ず着目をされた。然しもともと草原であるということは、この地が水に乏しく地力が劣っていることに基いている。ここが二次、三次の開発地となったのはこのためである。田畑が出来ると本家から分れた、二、三男や下人がポツリポツリとこの原の中に住居を構えた。野中の一軒家というのはこうして出来た家のことであったろう。本村の人たちは自分の住居を中心にして、この新開地を方位によって東原(菅谷)、向原(菅谷、志賀)、南原(鎌形)、西ノ原(大蔵、将軍沢)などと呼んだ。柳原(志賀、平沢、越畑)、松原(志賀、平沢)が比較的多いのは、茫ばくとした草原の中に、一、二本の柳や松の大木があったとしたら、先ず何よりも人目をひいたからであろう。その古木の下に薬師堂があれば、薬師堂原と呼ばれるのも自然である。今菅谷地区で原と呼ばれる地区を見ると、土地は多く野土で、冬季西北の季節風の吹き抜けるところが多い。霜道*1といって晩霜の害をうけ易いものもこの地区に多いようである。従って人家は今でも比較的に少く、耕地は畑が主になっている。ここで注意しなければならぬのは、原のつく地名でも、その出発が右【上】のような草原であったためではなく、平坦な台地で、広々としているために原と名付けられたと思われるものもあることである。鎌形の西上原、東上原などはその例であると思う。ここは人家も集って部落を作り、数百年の杉の大木が、鬱蒼として、家々の裏山に続いている。原とよんでもここは性格がちがうようである。*1:霜道(しもみち)…【養蚕】霜がおりやすい所。(篠田勝夫『埼玉のことば(県北版)』さきたま出版会、2004年3月)
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)