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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

四、村の地名

第4節:地形と地名

将軍沢

 次に将軍沢は「沿革」と「風土記稿」に、「利仁将軍の霊を祀りし大宮権現の社あるを以て将軍沢の名あり」とある。将軍沢も古い名前である正安元年(1299)八月二日の日付のある上野国世良田長楽寺の文書に、世良田荘の下司、源教氏が、武蔵国比企郡南方将軍沢郷内の田三反歩を燈明料として、長楽寺に寄進したということが記してある。(風土記稿)ところで利仁将軍の霊を祭ったという大宮権現について「沿革」は別のことを伝えている。同書の「古墳」の項に、

「坂上田村麻呂墳、村の中央八反田の山林にあり、八坪、三尺ばかりの墳の上に木製にして三尺四方の小宮あり、昔利仁将軍此地を経歴したるとき、此の墳に息(いこ)えしと、想うに延暦中、巌殿山毒蛇退治の時にもあらんか、将軍の霊を祭りて大宮権現と称す、明治十年九月村社の地中に移す」

 これによると古墳は坂上田村麻呂の塚であるが、利仁将軍がこの塚に腰をかけて休んだので、そこに利仁将軍の霊を祀ったのだという。どうも割に合はないのは田村麻呂である。岩殿山毒蛇退治の伝説では、田村麻呂をヒーローとするのが定説である。ところがここでは延暦中といって、毒蛇退治を田村麻呂の時代におき乍ら、その主役を利仁将軍としている。利仁将軍というのは、延喜十一年(911)に上野介、翌年上総介、十五年(915)に鎮守府将軍に任ぜられた人で、沈勇で謀略に富み翅(はね)を有して飛ぶような軽捷(けいしょう)さがあったという。下野の高蔵山に群盜数千が結集し、関東の調庸を掠奪した時、朝命を蒙って討平に向った。その時、夏六月であったが、たまたま大雪が降り、そのため賊徒は飢え凍えて力を失った。これに乗じて凶徒を悉く平定したので、その武略は天下に響いたという伝えをもっている。
 利仁将軍は実在の人間である。「沿革」では岩殿山の蛇退治を利仁将軍の手柄にしている。田村麻呂はその塚に腰をかけられた上に蛇退治の手柄までとられてしまって、まことに貧乏くじを引いているわけである。ところでこれにはわけがある。それは「沿革」の記事中に、

「伝に曰く、坂東十番比企岩殿山に毒蛇の住(すまい)なし、近郷の民、害を為すこと一方ならず坂上利仁将軍勅命を奉(う)け此地を発向せし、この山に陣営を布きたるとき合図の笛を吹きしよし、依て山部中に笛吹峠の名あり」

とある。つまり毒蛇を退治したのは坂上利仁であって、田村麻呂将軍と利仁将軍とは同一の人間と考えられているのである。尤もこの二人の事績はまことによく似ている。二人とも鎮守府将軍である。間違って二人の将軍を坂上利仁という一人の将軍にしたことも無理はないと思われる。然し本当は事績が似ていたから、混同して、二人が一人になったのではなく、一つの話が二様に伝って、一方では田村麻呂だといい、他方では利仁だといい伝えたのであろう。この話を伝えた人々にとっては、それはどちでもよいのであって、要するに将軍であり、天下に名の響いた英雄であればよいのである。われらの住む土地がそれらの偉人の活躍のあとであり、その偉人の事績に基いて地名が出来たのだと説明出来ればよいのであったのである。そこに間違いが生じたのである。これは地名伝説の最も普遍的な型である。日本武命や弘法大師や田村麻呂などはどこにいっても引き合いに出されているのである。
 古墳の存する八反田は、旧字、大宮裏、反間、前田、落合、熊市、別当などを含む山間の水田地帯である。このあたりの地形が田村麻呂や利仁と結びついて、将軍沢の地名となったものであろうと想像するのである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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