第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
三、村の生活(その二)
第9節:鎮守様と共同体制
お日待
これによって私たちの身辺の事実を考えてみよう。参籠して神と共に酒食をいただき、それが夜間行なわれたことは、今鎮守の祭りの宵宮にその名残りをとどめていると思う。然しもっとよくわかるのはお日待である。委員の話にあるように、男日待は、どこの村でも大てい二日続きで行なわれた。二日というのは、お日待行事が多いので、そのため二日がかりでなければ片づかなかったというのではない。お日待の仕事といえば、食べ物を作ってこれを神様にあげ、宴会を催して遊ぶことが主体である。徹夜の国会のような意見の喰いちがいは存在しないし、二日にわたらなければ話し切れない程、積る話の客人同志でもない。朝夕、顔を合わせている隣人であり村人である。一日でもよいし半日でも間に合う筈である。現に今は半日のお日待が多くなった。朝から晩までの一日で仕事の区切りをつけるのが、生活の常道である。とすれば、お日待にはどうしても夜が必要だったということになる。お日待の仕事が多いとか、四方山話が長いとかいうのではない。夜がなければお日待が成立しなかったのだと考えてよいであろう。つまり祭りの本体は「お籠り」であり、その「お籠り」は、夕刻からはじまって、翌日の朝に終るという祭りの原初の姿がここに残っていたのである。そして「籠る」ということは身を清浄にして神前にさぶらいはべることであった。気儘勝手な行動は許されないのは当然である。お日待の夜、我儘に帰宅すれば懲罰(ちようばつ)に付せられるという申合せがあったというし、又、懲罰の酒一升位買っても家に帰ってしまった方がよいと考えた者もなかったという。この話にも看過(かんか)することのできない意味がくみとられる。お日待には祭りの古いすがたが残っていたのである。お日待は祭りだったのである。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
このことは「お日待」という言葉の上からも例証することが出来る。 「まつり」は「まつろう」こと「お側におる」意であることは前にのべた。ところで「まち」も「お側におる」という意味をもっている。 例えば「待女郎」というのは、婚礼の時新婦につき添って万事万端の世話をする女のことである。この「まち」はお側におる意味である。つまり「まち」は「まつり」である。私たちの間でも「今日は八幡様のまち」だといえば「八幡様のまつりの日」という意味である。人家の密集した人の往来の多い区画を「まち」というので、おまつりで人出が多い状態を「まち」といったという解釈も出来るが。元来は「まつり」のことを「まち」といったのだと考えた方が正しいようである。
さてお日待の中心行事は然るべき食物を作り、打揃って飲食することである。そこでよく考えて見よう。極端に簡略された私たちのお日待でも、会食の際、神様を全く無視し、神酒も神饌も供えず、われわれだけが勝手放題に食いあらして終るということがあるだろうか。これはお日待である限り絶対にない。先ず神前にお灯明をあげ酒食を供え拍手をうって、然る後会食に移るのである。神酒、神饌は神も人も同じものである。つまりこれは直会なのである。つまり祭りに外ならない。直会は神様と同じ品を、同じ時に、つまり酒ならば同じ一つの甕(かめ)から汲み出し、餅なら同じ臼で一度についたものを、神と人とが一緒にたべるのである。高倉の一升ぼた餅も、遠山の黄粉かっくりみも、みなこの型を外れていない。お日待は祭りであった。