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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第9節:鎮守様と共同体制

祭り

 鎮守様が村の団結のためにはたらくといえば、それは鎮守様が村人全体に一番近く密接される時であろう。神様が手の届かぬ遠い所にいたり、特定の二、三の人々と対面して、他に及ばないという場合は、神のはたらきは弱く、又限定されていて、村全体には到達しない。そこで神様が村人全体のそばに一番近くおいでになられるのは、いつかといえば、祭りの時である。祭りは、神と人との接触の機会であった。農耕を主とする生活では、先ず五穀の豊饒(ほうじよう)を祈って春の祭りが行なわれ、秋には収穀のよろこびを得て神への感謝の祭りが行なわれた。春と秋の祭典は村の社の例祭であった。神を祭るとは何を意図したものかといえば、生活の保証を与えられたいということである。保証の確否は神との距離に比例すると考えられるのが当然であろう。かくて祭りは人々が最も身近に神を感ずる機会であった。そして主題は、五穀豊饒の祈りと感謝であるから、これは甲乙なく村人全体の問題である。祭りは、村人全体に神が接触する機会であったのである。さてこの神と人との対面接触は必ず一定の儀式をもって行なわれた。この儀式を祭りといっているのである。
 祭りについて学者の説をきけば、日本の祭りの本体、つまり中心行事は「籠る」ということであった。酒食をもって神をおもてなし申す間、一同が神の御前に、さぶらいはべることが「マツリ」であった。昔からの学説によれば「マツル」は「マツラフ」という言葉と同じで、「お側におる」ということである。具体的にいえば御様子を伺い、何でも仰せごとがあれば承(うけたまわ)って、思召のままにおつとめしようという態度である。だから神様に「マイル」のである。「マイル」というのはその場所に足を運んで出頭し、ある時間そこに留ることである。参ってまつろうことが祭りである。従って神前にこもるということになる。神前にこもって、神にさし上げたのと同じ食物を、神様と一緒にいただくのが直会である。これが「祭り」である。直会は神と人との会食である。だからその飲食物は極度に清潔でなければならないのは当然であるが、それと共に参列して共食の栄に与る人々も又、十分に精進を果たして十全のけがれないものでなければならない。その精進の徹底を期するためには「お籠り」が必要である。自由気儘に出歩くことは穢(けが)れに触れる所以である。それで祭りの本体は「籠る」ということになるわけである。この「お籠り」つまり祭りは前の日の夕御饌(ゆうみけ)から始り、次の日の朝御饌(あさみけ)で終了した。これは昔の一日が今日の午後六時頃、つまり夕日が地平線に沈み行く頃にはじまるとされていたからである。だから午前零時をはさんで、二日にわたって祭りが行なわれたのではない。一日の最初の時刻から祭りがはじまったのであるというのである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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