第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
三、村の生活(その二)
第7節:家号
家号で呼び合うグループ
家号にはその家の歴史が結びついており、従ってそれを呼び合う時、人々は家の呼び名に特別の住民感情を意識した。この点をもう少しのべておこう。特殊な住民感情というのは「○○の家」といえば、それは働き者の血統だとか、怠け者の家系だとか、まっすぐで正直者だとか、胡魔すりだとか、お人好しだとか、けちだとか、頭のよい家柄だとか、ホラ吹きの系統だとかいうような、その他様々の評判、噂、個々の家に対する評定のことである。「○○の家の娘か、あれなら間違いない。」とか「××の家の伜か、一寸あぶないな。」というのは、正直で働き者の○○の家だから、嫁にとっても大丈夫であり、××の家はハッタリが強いから、村の役職にはどうかな?という評定である。これが家に対する特殊の住民感情である。この評定は時には噂となって現われたり、時には何となく住民の胸の中は蟠居(ばんきょ)していて無言の間に共鳴を感じ合う。だから誰にきいてもこの住民感情が存在するということは否定しないのである。
そしてその住民感情の内容がつまりその家の歴史からもたらされたのだということになる。それで家号にはその家の歴史が結びついているという見方は、決して間違いではないと思っている。然し、だからといって私たちの解釈がすべてその住民感情=歴史を正しくとらえているとは考えていないのである。というのは、先にのべたような住民感情、家に対する評定というものは、決して表面に、あらはに現われたものではなく、前述のように噂や評判の形で、世間に伝っているものであり、自ら個々の胸中に蟠居しているものであるから、どこの何某が何時それを明言したということではない。又、目の前で喋ったとしてもその話している人が確かな動かない証拠を立てて、だからそうなのだと言っているのではなく、よくもとを正せば、矢張り人がそういうからだという噂や評判が根拠になっている。そして噂や評判が広く伝わり真実性が信じられるのはこれをきく人が自分も何となくそう感じているとか、噂にたがわぬ体験をしたとかいうことがあって、これが共感を呼ぶからである。とすればこの共感度は、噂の主に一番近くにいる人にとって最も強大であり、遠い人や、日常生活にあまり関係のない者にとっては、その度合いが少い。感じが弱い。つまり長い年月同じ地域に住み、農作業にも、日常の生活にも、冠婚葬祭等の交際にもいつも、行動を共にして来たものでないと、噂や評判の真実性に触れることは難かしいのである。住民感情はお互に家号を呼び合っている仲間の間だけに了解されているのである。だから広野の家号から、その家号に結びついた意味やニュアンスを探し出そうとしても、現実にその家号を呼び合っている者でないとこれは出来ないことなのである。他の側からこれを考えても、本当は無理なのである。だから前述の私達の解釈が正しく当っているかどうかは疑問であるといったわけである。然し私たちの問題とするところは、家号解釈の当否というそのことではなく、家号を呼ぶ場合には、必ずそれに伴った住民感情が存在したということである。住民感情はその家の歴史に対して発したものであるということは、お互に相手をよく知りつくしていたということで、この点が大事な所なのである。家の成りたちも、移り変りも、家風も、人柄もお互によく知り合っているということは、それ等の人たちが、お互に相依相助の協力関係にあったことを示すからである。何の関係もないものは知り合う必要はないし、関心の対象になり得ない筈である。家号で呼び合う仲間は一つのグループを形成していた。
そこで村の家々は、先ずこの家号で呼び合う集団の中に位置したことを知るわけである。その集団は、広野の例で見たように、本分の意識でつながった血縁関係か、同じ地域にいくつか集ってつくった隣組とか、お日待組とかいわれる小地縁団体にあたるわけである。家は具体的にはこの組織の一員として存在した。家号で呼ぶ集団を再び広野村で検証しよう。
先ず広野村では、明治末年の家の配置は次頁の図のようになっている。いわゆる七郷県道の東側に沿った村の北部に当る地区に、家屋の集団が見られる。この集団の家号は前述のように
「上の家」 「下の家」 「新宅」 「元屋敷」 「おきの家」 「前の家」 「向い」
という呼称が大部分である。この呼称はいわば普通名詞である。然しこの集団ではこれが固有名詞のはたらきをして、家々の固有の呼び名となっている。但しこの呼び名はこの集団だけに通用するもので、他の地区では固有名詞としての働きは無効である。このことはこの集団が、他者と異った独自の小社会を作っていることを示す。その小社会の人達だけに通用する家号を呼び合っているということは、家号を呼び合う仲間同志でつくっているグループが存在していることを示すものである。而もこの集団は大部分の家が杉田姓を称えている。姓の一致は必ずしも、家と家とのつながりを意味するものではないが、これが家号のグループと一致しているということは、家号で呼び合うグループの存在を裏付けこそすれ、否定するものではない。私たちはここに一つのグループを発見することが出来た。次は宮田姓を称する「上の家」「下の家」のグループ、これは少数のため、広野村中郷の地区に入っているが、家号の上から見れば独自のグループである。
同じように、中郷の地区では、「武の内」から分派した家々の外に、「うちで」「前」「宮下」「おとうざか」等が加って、一グループを作っている。家号を見れば、家号と家号の関連性から一グループであることが明らかである。家号の重複がないこともこれを裏付ける。下郷では「宮ヶ谷戸」を中心にしたもの、「表」を中心にしたものとの二つの家系のグループが図上に現われているが、家号の上から見ると、「東の家」を除いて殆んど重複がない。従ってこれを一つのグループを見てよいであろう。
古来広野村は上郷、中郷、下郷の三地区に分けられていた。この三つの地区は、三通りの家号の集団と一致しているのである。昔の人たちもこの集団の存在を意識していたのである。次に太郎丸は全体で一グループと見てよいだろう。田幡、中村、大沢等姓の上からは三とおりになっているが、家号の上から見ると、皆つながりがある。例えは、「本家」「当住」「やしき」などは意味は同じであるが、呼称を別にして区別している。一つのグループであるから同じ家号が二つあることは許されない。「油やの家」「紺屋家」「酒屋家」なども、一面には、本家、新宅という名称の重複をさけるための方法であったかと思われる。家号の上からも太郎丸全体が一つのグループであることが知られる。
「図 勝田村家の配置図と家号」上に見る勝田村の二つのグループは、地区が本郷と高倉とに遠く離れているために、家号もきれいに二つに区別されて、まことにすっきりした姿になっている。本郷地区では、下広地、雨ヶ谷戸、天神山、金塚等の地名や、薬師堂、地蔵堂、堰、川端等の地物等を利用した呼称を多くして、東西とか、上下とかいうありふれた名前の重なるのを避けている。全体として一つのグループであることが分る。これに対して、同じ村でも、高倉は全然家号の趣きを別にしている。「沖」「表」「上」「台」等、本家や、旧家を示すものに対して、「下」「新家」「前」「中」「新宅」等、その分派を示す家号があって、この二つを中心に部落が出来ている。ここも一つの小社会であった。
以上により、私たちは「家号」を呼び合うグループが存在したことを実証し得たと思う。そして右【上】の三ヶ村についてこれを検討する間にそのグループは古来の、いわゆる「お日待組」とか、「冠婚葬祭」の組とかに、一致するものであることが分った。広野の上中下の三郷、太郎丸、勝田の本郷、高倉等は、いづれも、お日待組に当るものである。これ等のグループの人達は各々そのグループ内だけに共通の住民感情で、お互に家号を呼び合っていたのである。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)