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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第7節:家号

家号と家の歴史

一、とんがいと
「とんがいと」は地名である。殿ヶ谷戸の訛りではないだろうか。「殿ヶ谷戸」の地名は、志賀村、鎌形村にもある。地名については別に述べるが、ここで触れておきたいのは「がいと」である。漢字で「何々ケ谷戸」と書くと、何々という「やと」という意味にもとれ「やと」の名前だと考えられやすいが、そうではなく、これは「かいと」の名前であると思われる。「やと」は「やち」「やつ」と同じで、山間の谷、湿地の意味である。ところがこの「殿ヶ谷戸」は小高い丘陵の地で谷でもなく湿地でもない。志賀も鎌形も同様に広くひらけた田畑の地である。広野には「とんがいと」の外に、「鹿島ヶ谷戸」「宮ヶ谷戸」があるが、これも「やと」という地形ではない。「殿ヶ谷戸」は「殿がいと」である。「がいと」は「かいと」であり、漢字で書けば「垣内」である。つまり垣の内で、誰かが囲い込んだ一つの地域の意味、屋敷の意味である。殿様といわれるような立場の人がいた地域だから「殿がいと」といったのだろう。「かいと」を「かいつ」という地方もあり、「御所貝津」「殿貝津」などと書いているというから他にもある例である。この村だけの独断とはいい得ないわけである。
 「がいと」を「垣内」とすれば、他の「鹿島ヶ谷戸」も「宮ヶ谷戸」もその地名の意味が自ら了解されてくる。それはさておき「とんがいと」が「殿がいと」で、住民から殿さまという風に考えられていた人の住んでいた土地、或はそういう人が住んでいたのだと考えられていた土地とすれば、この土地は多分早くから開けていた場所で、他の土地より何かについてすぐれたよい場所であったにちがいない。この土地の名が、ある家の家号となり、その家の独占の形となると、その家はこの土地に住む人々の代表者で、実力者であるという観念で迎えられる。代表者、家力者といってもその勢力の程度は様々であろうが、「鹿島ケ谷」「宮ヶ谷戸」の家号もこれと同じ考え方でよいと思う。

二、石倉
 これは、この家のある小字名でこの家を呼んだのである。石倉の地名の起原は後にのべる。(五二〇頁参照【第四章 第五節 特殊な地名 ▽社宮司 に「石倉」の説明がある。】)

三、上の家
 小高いところにあるから「上の家」といったことは間違いないが、「上」という観念は、「下」があってはじめて成立する。丘の上の一軒家では対比物がないから上下の呼称は起り得ない。だからここには「下の家」がある。この「下の家」は「上の家」の分家である。それで上といい、下といってこの二軒を並べる時に、唯屋敷の高低ということだけではなく、本家、分家という観念が伴っていたと考えてよい。本家は「上の家」だから、その分家は当然「下の家」というべきであるという意識が働いたと思うからである。人々は、上といえば本家と考え、下ときけばその支流であると判断したのである。一六番と一四番の「ウエ」「シタ」関係も、昔は、本分家の間柄であったか、又はあったと考えられていたのではないだろうかと思うのである。

 前述の「がいと」やこの「上」、「下」など他の地区にも、しばしばその例のあるものは、これ等を並べてみて、その呼び名に含まれている言外の意味を引き出すことが出来るが、その土地だけの特異な家号になると、何か意味があるらしいとは思うが、これを適確に指すことはむづかしい。
 おきの家は他にも例がある。高倉部落と、大蔵とに「おきの家」がある。字書に「おき」というのは「田野の遠くひらけた所」という説明があるが、本町の場合はこの地形に当てはまらない。地元の人が考えているように「やつ」の奥の方にあるから「おき」というのだという方が、地形には合っている。広野の場合、高倉の場合は、この説明のとおりである。「おきの家」には古い家というイメージがついているように思う。はじめ谷の奥の高いところに住家が出来て、新宅や、分家は、その下手(しもて)に建てられていくのが原則である。おきの家といえば、古い家柄という意味が含まれているようである。
 「元屋敷」は新屋敷に対する家号である。新家新宅に対する本家を、元屋敷といっている。然しここには元屋敷に対する分家らしい家号がない。そして、地元でも「古い屋敷跡に分家をたてたので元屋敷という」といっており、これが当っているようにも考えられるが、矢張り、元の屋敷ではなく、はじめから元屋敷であったのであろう。元屋敷といえばこれも矢張り、一族の宗家で、古い家だという観念が浮ぶのである。
 「向いの家」や「前の家」が一族の集団地区から離れて、部落前方などに孤立的にある場合は、新しい家である場合が多い。古い部落から見て、向いであり、前に当るからである。広野村中郷は、永島姓が多数を占めている。本家は「武の内」である。「武の内」という屋敷名は昔から各地にあり、家の周りに竹を沢山植えて要害にあてた。それで「竹の内」というようになったといわれている。この「武の内」の家号も、これと同じ起原であろう。
 「武の内」は「竹の家」に好字をあてたのである。はじめは竹で囲まれた屋敷であった筈である。永島家の東方、県道と粕川の間は竹花という地名になっている。東日本には竹の鼻、竹の花の地名が多い。これは個々の住宅ではなく、一つの集団を、遠望から守るために、その周囲に竹を植えていた。そのために起った地名である。竹花の地名から考えても「武の内」は「竹の家」で、竹で囲まれた屋敷にちがいないということになる。「武の内」は永島一家の総本家である。その隣に「東のうち」があり、これに対して「西のうち」がある。共に分家である。これが東と西に並べて呼ばれるのは、前述の「上」、「下」と並べてその中に本分の意味が含まれていると考えたのと同様である。この「東」と「西」には中央にある本家の存在が強く意識されている。ここで東、西といえばたけの分家であることが説明なしに了解されるのである。「新宅」も、「鹿島ヶ谷戸」も「武の内」の分家である。はじめの分家は東と西であろう。あとの分家はもう方角では呼べないので、ズバリ「新宅」といい、もう一つは「新宅」と区別して「かしまがいと」といって、屋敷の名を家号とした。「かしまがいと」は、前述のとおりかしま屋敷である。そして新宅といい、「かしまがいと」といえば「武の内」の一派であることは、言外で了解されていたと考えられる。「前の家」は古い堂の前であり、宮下は神社下の家という意味だという。これなども何かのニュアンスが伴っていたにちがいない。
 下郷では、「宮ヶ谷戸」に「いんきよ」があって本分が明瞭であるが、東の家との関係は分らない。この一軒だけが「大沢姓」である。つぶれ屋敷を立てたという説がある。いん居は親が二、三男などをつれて分家したものが多い。長子のいる本家を「とうじゆう」という。  本家の呼び名に「表」がある。五〇番の「表」に対して、「下の家」「前の家」は分家に当るのではないかと思われる。同じ「権田姓」を名乗っている。「畑中」は、畑の中に孤立している新らしい家であろう。「台の家」といえば高台に屋敷があって、矢張り古い家の意味が感じられる。「大下(おおしも)」が本家で「東」が分家である。これは、東、西まで発展しなかった。
 「かじや」は、職業によって呼んだ家号であることは明らかであるが、これも職種を現わすだけでなく、種々のニユアンスが含まれている。村には「酒屋」、「こうや」、「油屋」などという家号が多い。昔その商売をしたのだと伝えている。これ等の家は、屋敷も広く家屋の構えも大きくて、村の有力者として重んぜられているものが多い。百姓の外に、商工の仕事をするためには、経営のための資力や、知識や、技能が必要であり、経済の動向を先見して、他を凌(しの)いで行くような敏速な頭の廻転も必要である。村で最も早く、広い範囲に亘って、貨幣経済にタッチして行ったのは村役人の階層だといわれている。成程、資力や能力や社会的の地位から推して、平凡な百姓よりも、村役人層が商売に適格であったであろうと納得出来る。  この人達は、この商売によって一般百姓とはレベルのちがう多くの財貨を獲得して、益々土地の有力者たる地位を高めた。今私たちが古い商売の家号でその家を呼ぶ時、その家の経済的の豊かさが心に浮かんでくる。昔の人達も同じように、いわば畏敬の気持で家号を呼んだものだと思う。広野の家号のいわれとそれに伴うニュアンスを考えてみると以上のような結果になる。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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