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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第6節:村の家々とその盛衰

第三の型

 下級の百姓、自作地があってもごく僅かであり、小作地も規模が小さく、家族の労働力も消化しきれないで、他に出て働くことを主とした百姓である。
 今でいえば第二種兼業農家である。この家庭は、経済的基盤が薄弱で、生活はいつも他に依存しなければならない。従っていつも下積み生活に苦しむということになるが、これは精神的敗北主義の結果である。発奮すれば事情は自ら異った。貧乏のためたのむものは自分の腕一本と悟って、却って立志伝的な人生を開拓したものもある。

▽彦兵衛・清左衛門
 家業は彦兵衛夫婦で受持ち、子供達は他家に奉公に出ている。時には女房も留守のことがある。
 元禄十五年(1702)、彦兵衛(43) 女房(33)=古里村助左衛門方ニ罷在候 男彦之介(12)=同村又左衛門方ニ罷在候 娘まつ(9)=勝田村平兵衛方に罷在候。家業は彦兵衛だけ、妻と二人の子供が働きに出ている。
 宝永八年(1711)、彦兵衛(52) 女房(46) 男○左衛門(20)。
 正徳六年(1716)、彦兵衛(56) 女房(51) 男子清左衛門(25)。
 右【上】の二年度の記録では、年期奉公に出ているという資料は得られない。然し享保十五年(1730)には、彦兵衛(71) 女房(66) 男清左衛門(39)=太郎丸加兵衛処ニ勤在候 女房(35)=同村太兵衛処ニ勤在候 女子まん(13) 女子たけ(16)とあって、清左衛門夫婦が奉公に出ている。自家の耕作はごく小規模だったことがわかる。
 享保二十年(1735)には彦兵衛が死去し、清左衛門が自家に戻り、妻は勤めに出ている。母(70) 清左衛門 女房=○○村勘左衛門所ニ罷在候 女子きん(16)=福田村次郎太夫方ニ相頼申候 女たけ(?)。彦兵衛、清左衛門の家は、家族全員で働くだけの田畑を持たぬ百姓であった。

▽伊左衛門
 これは家族全員殆んど他所で働いている例である。
 元禄十五年(1702)、伊左衛門(54) 女房(34)=同村武兵衛処ニ罷在候 弟八兵衛(38) 弟権三郎(29)=古里村助左衛門処ニ罷在候 女子さん(4)。一応伊左衛門と八兵衛で農事を受持っていたことになる。
 宝永八年(1711)、伊左衛門(63) 女房(47)=後妻か? 弟八兵衛(47)=志ヶ村宝城寺ニ罷在候 同権三郎(37)=勝田村久兵衛方へ○き参候 女子りん(13)=さん 女子きん(2)。八兵衛は下男として宝城寺に勤めた。権三郎も奉公であろう。
 正徳六年(1716)、伊左衛門(67) 奈良梨村ふけんじに罷在候 女房(52)=右伊左衛門所ニ罷在候 弟角兵衛(52)=八兵衛 同村広正寺ニ罷在候 弟久左衛門(42)=権三郎 同村又左衛門方嫁ニ罷出候 女子はな(18)=りん 女子きん(7)。伊左衛門夫婦がふけん寺【普賢寺 天台宗 現・比企郡小川町奈良梨830】にいっているのはどういう事情だろうか。角兵衛は勤先を広正寺に替えている。久左衛門は婿にいき、家の中は娘二人ということになる。ともかく百姓の手間はあまり必要ないことを示している。
 享保十五年(1730)、伊左衛門は死去し、娘に婿を貰った。この婿も又、他家に勤めている。母(66)=当二月相果候 女房ひな(33)=はな 五左衛門(37)=同村太兵衛処ニ罷在候 女子きん(21)=古里村に縁付申候。家は女房ひなだけである。
 享保二十年(1735)、女房ひな(37) 五左衛門(41) 男子弥○郎(8)。男子が不意に現われている。この家も零細農であったと思われる。

▽武右衛門
 むしろ第二の型に属するものかもしれぬ。然し、一人だけの伜がはじめから勤めに出ているので、第三の部類に入れた。
 元禄十五年(1702)、武右衛門(40) 女房なつ(38) 男子八之助(16)=太郎丸村甚右衛方に罷在候 娘しやう(8) 同まて(6)。耕作は武右衛門夫婦で事足りたのである。
 宝永八年(1711)、武右衛門(50) 女房(47) 男子六兵衛(25)=八之助=太郎丸村加兵衛勤候 女子しやう(18) 同まて(15)=同村孫六方へ勤候 男太郎(9)。八之助は六兵衛と改名し、勤先は加兵衛となった。次女のまても奉公に出ている。耕作は武右衛門夫婦と長女のしやう。太郎はまだ役に立たない。
 正徳六年(1716)、六兵衛となつ(まて)が奉公に出ているところは前と同じ、伜太郎の名が見えない。これも他に出ているため書落したのではないだろうか。武右衛門(54)? 女房(54)? 男六兵衛(30)=御屋敷様ニ罷在候 女子しやう(23) 女子なつ=まて 同村泉学院ニ勤候。武右衛門と女房の年令に誤りがある。
 享保十六年(1731)、武右衛門夫婦は老衰し、伜太郎左衛門(太郎)の名が再び現われ、なつも在宅の形になっている。武右衛門(70) 女房(67) 男子六兵衛=同村泉学院ニ相勤候 女子しやう(38) 女子なつ(35) 男子太郎左衛門(30)
 享保二十年(1735)、武右衛門(73) 女房(70)伜六兵衛(49) 女房しやう(42) 同なつ(38) 伜太郎左衛門(34)。他に出ているという説明書はない。然し、六兵衛以下兄弟姉妹いずれも独身である。何かの事情が伏在しているにちがいない。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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