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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第6節:村の家々とその盛衰

第二の型

 中級の百姓。夫婦単位の一家族が働いて食う程度の田畑をもっているもの。このクラスでは娘は嫁にかたづくが、二、三男は、積極的のものは家を出て新しい職を求め自らの前途を開拓し、消極的のものは、兄の手伝いをしながら一生独身で終るというものもある。こういう型のものである。

▽八兵衛
 八兵衛の家族の中に弟「意札」というのがある。二十三才から五十六才まで家族の一員として変らない。「越都」「意都」「壱都」などと書いた年代もある。これは一体どんな存在だったのだろうか。尚八兵衛は正徳には作右衛門と改名している。
 先ず元禄十五年(1702)には、母(49) 八兵衛(28) 女房さい(23)意札(24) 妹なつ(12)姉ゆわ=中爪村へ嫁す。五人暮しである。
 宝永八年(1711)、女房が替っている。子供はない。母(57) 女房(25) 弟 越都(33) 妹つた(21)=なつ。
 正徳六年(1716)には子供が二人生れて、妹は福田村へ縁付いている。母(62) 女房(34) 女子(5) 男子五郎(3) 弟 意都(38)。
 享保十六年(1731)、母(77) 女房(48) 女房まつ(20)=作右衛門の娘 男七右衛門(27) 女子はつ(5)=七右衛門子 弟壱都(52)。
 男七右衛門の肩には、「高倉彦兵衛弟嫁ニ取申候」とある。この帳面は嫁と婿を混同している。婿にとったという意味である。年は二十七才、ところが正徳の男子五郎三才はこの年に二十八才になる。然しこの五郎に相当する人物がない。年齢は似ているが、矢張り五郎は七右衛門でない。五郎が早逝して、姉のまつに婿を貰ったと考える外はない。
 享保二十年(1735)、女房(52) 弟壱都(56) 娘まつ(24) 七右衛門(30)女子はつ(9)。記載に従えば、はつは、前掲まつ十六才の時の子である。弟壱都はどんな存在であったか。名前から推して、単に兄の百姓仕事を手伝っていたのだとは受けとれない。兄の家は去らなかったが、同居のまま、鍼灸とか祈禱とか、手習師匠とか、そのような職で、口を糊したのではないだろうか。

▽宇兵衛
 宇兵衛ははじめ女房なく、宝永八年(1711)五十二才の時、女房三十二才が記録に現われて来るが、子供はなかった。そして弟の兵左衛門も女房を貰って兄と同居していた。弟に家をつがせるつもりであったかもしれない。中級単婚家族に相応した家産であったと思われる。
元禄十五年(1702)、宇兵衛(42) 母(62) 弟兵左衛門(32) 妹とめ(23)=山田村へ縁付く。
 家族は少いが下男、下女をおく程の耕作者でもなかった。四十二才の独身は何か事情があったのであろう。
 宝永八年(1711)、宇兵衛(52) 女房(32) 母(71) 弟兵左衛門(41) 女房(27) 次郎八(4)=兵左衛門子。成人四人、老母と子供、大体この位で百姓の方は間に合ったのであろう。  正徳六年(1716)、宇兵衛(57) 女房(37) 女子しも(5) 弟兵左衛門(46) 女房(32) 女子すて(6)=兵左衛門子。この年には母と五郎八が欠けている。兄弟にそれぞれ女の子が出来ている。
 享保十五年(1730)、十五年の間に、宇兵衛と、兵左衛門夫婦が姿を消している。病死としか思われない。字兵衛の娘が婿をとり、兵左衛門の娘は一人同居し、一人は他に預けている。それで兵左衛門夫婦が他に転出したとは考えられない。重兵衛(27)=宇兵衛去年相果候婿 女房しも(21) 母(52) 姪すて(21) 姪いね(18)=下里村小兵衛に預く。
 享保二十年(1735年)、十兵衛(31)○藤様ニ罷在候 女房(25) 女子(4) 母(56) 従弟すて(25) 従弟いね(21)。女四人の労働力で百姓を間に合わせ、主人の十兵衛が武家奉公ということになると、中級でも下位のクラスに属するものと思われる。この家は家の中心人物が早世し、しかも子供に恵まれないという不運をかかえている。

▽五兵衛
 五兵衛の家は男の子に恵まれず、後継者も得られず、遂に後家になった。自作の型に入れてよいと思う。
元禄十五年(1702)、五兵衛(37) 女房(34) 娘ちよ(7) 同きの(4)。通常の家庭である。家族で耕す程度の田畑はあったにちがいない。家族の中から奉公に出たという記録がない点からこれが察せられる。
 宝永八年(1711)、五兵衛(46) 女房(43) 女子ちよ(16) 女子さん=きの当年死す 女子りん(2)。娘一人死去、一人生れている。
正徳六年(1716)はそのままで、五兵衛(51) 女房(48) 女子ちよ(21) 女子(6)。男の子か、婿の欲しい境遇である。
 ところが、享保十五年(1730)には、五兵衛(66) 女房(62)と二人だけになり、娘二人の名前が消えている。婿と孫の名があってもよい筈であるが、事はそのように運ばなかったらしい。
 そして四年後には、享保二十年(1735)、後家(66)とあるだけである。

▽伝左衛門
 伝左衛門の家は、元禄十五年(1702)に記録されただけで、その後の帳簿には全く姿を消している。家の廃絶した例かもしれぬ。
 元禄十五年(1702)、伝左衛門(25) 女房はる(22) 妹はな(8) 同きい(5)=○年十月しす。父母も、おじ、おばもなく、妹一人が死亡とある。病魔にとりつかれた家というものが各地方によく見られるものである。嫁を貰ってこれから家業に励もうというすがたがある。それで中級の部と考えたのである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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