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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第6節:村の家々とその盛衰

第一の型

▽佐平(喜右衛門)
佐平は佐兵衛とも書く。元禄十五年(1702)には、喜右衛門(32)といい、女房くら(22)男子辰平(2)の三人家族であった。女房と同じ竹本村から下男久左衛門(30)、奥田村から下女つた(26)、大蔵から下女なつ(12)、を雇って農業を営んだ。宝永八年(1711)には、女房くらは越畑村から来た女房(36)と代っている。男子辰平は辰之助(12)と改名し、娘つね(8)が出来て、奉公人は下男長三郎(20)の一人だけとなった。五年後には、佐平(46)、女房伜辰平(17)、女子つね(13)、の四人、家人だけで仕事を片付けた。男子与五郎(6)が生れている。享保十六年になると、伜与左衛門が死んでいる。与左衛門は、辰平であり、辰之助である。与左衛門がしばしば改名したり、三十三才まで独身であったりしたことは、生来病身であったのかもしれない。家督も譲らず享保二十年も佐兵衛が家長の地位にいたことからそのような想像が出てくる。享保十六年家族は、六十一才の佐兵衛、五十六才の女房、娘つね、男子与五郎が成長して文次郎(19)、となり、下男はおいていない。享保二十年には、佐兵衛夫婦と文次郎(24)に嫁よし(20)を娶り、下男(16)をおいて農業を続けていた。家族は六人、娘つねは享保十六年には、一応「高谷村に縁付申候」と書いて抹消してある。佐平の家は地主とまではいかないが、自家の手間だけで間に合わせ不足の場合は、奉公人を雇って経営をするだけの土地をもっていたと見てよい。

▽安兵衛
 元禄十五年(1702)、七十五才の九左衛門が家長の地位にあって、伜安兵衛32)、女房じやう(28)、その子さつ(10)や五郎(7)、二男長兵衛(26)に加えて、下男喜右衛門(30)、下女はる(32)、という手揃いの家族構成である。尤も二男の長兵衛は「太郎丸村へこし申候」とあるから、直接労働力とはなっていなかったかもしれない。
 宝永八年(1711)には、安兵衛(41)、女房(36)、娘さつ(19)、伜亀之介(屋五郎)(16)、同三之介(8)、同喜三郎(6)となり、子供の数も増したが、労働力は大分充実し、安定感を与えている。下男角助(19)が志ヶ村から来ている。この調子で五年後の正徳六年(1716)には、一層充実の度を加え、夫婦の許に、娘さつ(24)、伜亀之介(21)、同六三郎(16)、同万五郎(11)と、子供達が元気な顔を揃えている。農事も順調にはかどったと思う。下男はいない。下男の必要はなくなったのである。
 十五年後、享保十五年(1730)、家長は安兵衛(61)。亀之助が改名して佐右衛門(36)、その女房(27)、孫弥介(8)、二男平兵衛(28)、三男万五郎(26)の家族六人に加えて、下男、下女各一人宛を雇った大家族となっている。然し享保二十年(1735)には、二男の平兵衛が「江戸駒込○○に罷在候」とあって、独立の途に赴いたらしい。三男儀右衛門は(30)まだ同居している。これも何とか身の振り方を考えなければならない立場である。佐右衛門夫婦には、弥市(12)、女子(5)、清介(2)があり、家族は七人であるが、この年に「娘きん(21)」が突然登録されている。娘といえば安兵衛の子になるわけだが、その理由は分らない。他に下女一人がいる。相変らず大家族である。百姓も大きかったのであろう。安兵衛の弟長兵衛は享保十五年の記録まで、同じように「太郎丸村へ越申候」と註してある。越すというのはどういう意味か、領主もちがう他村へ土地を分けた分家ということは考えられない。婿にいったとすれば最も自然であるが、わざわざ「越し申候」と書いてあるところが、解釈に苦しむ点である。この時代も二、三男の前途は多難であった。二男平兵衛は江戸に出たが、まだ三男の儀右衛門がいる。儀右衛門の生涯がどう展開したかその後の記録がない。私たちはここでは、安兵衛の家がこの二、三男の労力を充分吸収していくだけの経営基盤を持っていたことを知れば足るのである。第一の型に属するものである。

▽次左衛門
次左衛門は元禄十五年(1702)四十二才から、享保二十年(1735)七十四才まで、家長の地位を譲らなかった。元禄の家族は、女房(39)娘ゆき(18)男辰之介(16)男三之助(7)下男長四郎(46)下女かめである。
 宝永八年(1711)には、女房(39)=後妻 女子ゆき(27)=同村定左衛門方へ縁付 男清兵衛(24)=辰之助 男三之助(16)女房(15)=清兵衛妻 下女せん(19)。
 正徳六年(1716)は、女房(44) 男清兵衛(28) 同女房せき(20) 男庄治郎(22)=同村武兵衛方へ養子 下男(28)。
 享保十六年(1731)には、女房(59) 男子清兵衛(43) 同女房せき(35)。
 娘のゆきと二男の庄次郎は「宗門改帳」には記載してあるが、夫々前記の家に縁付いている。従って家族は大人四人だけである。ところが四年後になる。突然清兵衛の伜と娘が出てくる。享保十五年(1730)には記帳漏れだったのだろう。伜清兵衛(46) 同女房せき(39) 清兵衛伜勘三郎(22) 同断玄三郎(15) 同断さき(8)となっている。「宗門改帳」は割合づさんなものだったらしい。つまり形式的に提出する程度のものだった。この家も第一の型に属すると見てよいし、次男の将来にも不安がない。

▽太右衛門
 太右衛門は元禄十五年(1702)に二十四才、享保二十年(1735)の五十五才まで遂にその家運は振わなかった。子女に恵まれなかったためである。元禄の家族構成は、本人(24) 女房(21) 下男(25) 下女つま(?) 下女はな(8)の五名となっている。下男や下女を使って耕作を営むに足る家産をもっていたことが分る。この点では第一の型に属する。
 宝永八年(1711)になると、女房(30) 円十郎(2) 養子はな(17)=前掲の下女はなと同一人であろう。養子女子(14)。円十郎は伜であろう。養女を二人も入れて、手不足を補っている。円十郎の名はその後には見えぬから早逝したものと思われる。
 正徳六年(1716)には。女房(35) 養子女子(24) 養子女子(?)の四人だけである。十五年後の享保十六年(1731)には益々家庭はさびしくなり、女房(48) 女子養子はな(38)=志ヶ村へ縁付く。男安五郎(5)=当三月相果候とあって、家族はついに太右衛門夫婦だけとなり、その儘四年経過して、享保二十年(1735)も、五十五才の夫と、五十二才の妻が、唯二人悄然と相対している。下男も下女もない。このような場合、田畑は他家へ貸したり譲ったりしたのであろうと思われる。第一の型が必ずしも世に栄えないという例に当る。

▽重左衛門
 これは家産も多く家族も栄えて、長男は家をつぎ、次男は分家をたてたというめでたい例である。元禄十五年(1702)に五十二才の重左衛門は享保十五年(1730)八十三才で家長の座にあり、その妻は、享保二十年八十才で尚存命である。
 元禄十五年(1702)には、本人の外、女房くに(48) 妹とめ(50) 男子七之助(19) 同?(14) 娘はつ(11) 下男(37) 下男(31) 下女かめ(?) 下女あき(?) 下男下女二人宛雇う大家族である。
 宝永八年(1711)には、妹とめが「同村十左衛門方に罷在候」とあって転出し、娘はつは月輪村に縁付いた外、伜達には女房を迎え、孫も生れている。女房(56) 男定左衛門(27)=七之助 女房ゆき(24)=定左衛門妻 女子きの(6)=定左衛門子 同断伝三郎(4)=同上
 男子長左衛門(23)=次男 女房やす(19)=長左衛門妻 下男(30) 下女(26)。
 大百姓らしい家族構成である。正徳六年(1716)にもこの盛況が続いている。女房(61) 男定左衛門(32) 女房ゆき(29) 女子きの(11) 同断伝三郎(9) 女子さん(5) 男子長左衛門(28) 女房やす(24) 女子りん(6)=長左衛門子 下男、下女。三夫婦が揃い孫は四人になった。
 享保十五年(1730)、孫娘きのは月輪村へ縁付き、孫伝三郎=勘六郎は結婚した。次のとおりである。女房(76) 男定左衛門(47) 女房ゆき(43) 男勘六郎(24) 女房(22)=勘六郎妻 女子さま(20) 男喜三郎(17)=定左右門の二男 男長左衛門(43) 女房やす(39) 女子おき(21)=りん 男七十郎(11)=長左衛門子 下女二名。「枝もしげるし葉もしげる」という目出度い歌を地でいった形である。
 享保二十年(1735)には、重左衛門が没して、貞右衛門があとを嗣いだ。女子のさまは結婚し、弟長左衛門は分家独立した。「宗門改帳」でも別世帯に記載している。先ず、貞右衛門の家は、母(80) 女房ゆき(46) 伜勘六郎(28) 女房(26)伜喜三郎(21) 女子しう(11)=ここに新しく出た。下女(18)。八人暮しで働き手も揃っている。
 分家した長左衛門は、前年女房に死なれて、後妻を娶った。女子おきは志ヶ村に嫁した。子供達の記載に錯乱があるようであるが次のとおりである。女房よし(44) 伜彦之助(15)=七十郎 同長八(12) 女子くら(9) 女子(6)伜弥六(4)。子供達は前の「宗門改帳」には登録されていない。書きおとしたのであろう。子供達はまだ幼いが五人の子福者である。子供五名はこの一連の「宗門改帳」では珍らしい。普通三人位である。一般にいわれているような、産児制限が行なわれたかどうかは分らない。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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