第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌
三、村の生活(その二)
第6節:村の家々とその盛衰
農家の三つの型
広野村の島田氏支配に属する広正寺檀下の家々を見ると、略々右に挙げた四つの例のいづれかにあてはまっている。これを農業経営の面から見ると三つの型に分けることが出来る。
一、重兵衛の家は地主乃至自作農の型で、少くとも二町歩(他村の例によっても大体二町歩である)前後の耕作をしており、尚若干の貸付地もあったのではないかと思われる。主人が村役人の役職にあり、これは農業に専念出来ないこともあるが、要するに家族だけでは手間が足りず、下男や下女を雇って耕作をしている型で、階層的に見れば、上級百姓である。この家からは分家する場合もある。
二、与四兵衛の家は、自作農型と思われる。大体生活に必要程度の田畑は持っているが、これは一組の夫婦を中心とした家族の生活を満たす程度に止るから、成人に達した二三男はこの枠からはみ出すことになる。はみ出した二三男は他に職場を求めて家を出る。出おくれた者はいわゆる「オンジー」として一生家の手伝をして終ることもある。
忠兵衛の家は、与四兵衛と同じ自作農の型であると思われる。共に中級の百姓である。三、庄左衛門は、水呑、小作の型で、名請地をもたず、持っても極めて僅少な土地に止まる。小作地を樹やしてもそれは家族の生活を維持するに足りない。そこで今でいえば労働力を売ってくらすことになる。大部分の家族が他家へ下男下女として奉公に出て生活を維持する。下級の百姓に属するわけである。
以上のように三つの型はこれを上、中、下の階層として分類することが出来るが、然しその三つの型には夫々その家の運命が定っていて、上の方ほど幸福で繁栄し、下の方ほど貧困で悲惨であったということにはならない。このことは、前述の四つの例でも、察知することが出来た。そこで更に、残る他の資料にもとづいて、家々の興亡のあとを辿ってみよう。人の家の盛衰は案外、流動的であり、その盛衰の鍵はその家の「人」の健否にかかるところが大きいと思われるからである。
『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)