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第6巻【近世・近代・現代編】- 第1章:地誌

第10節:嵐山町誌

三、村の生活(その二)

第6節:村の家々とその盛衰

庄左衛門の家庭

 これは家族にも、経済にも恵まれなかった家の一例であろうか。然しこの家には明日を持つ明るさがある。これをみよう。

庄左衛門の家庭の家系図|スキャン画像
庄左衛門の家庭

 元禄十五年(1702)、庄左衛門は年三十二、六十二才の老母と六才の娘を抱えたやもめ暮らしである。家族は三人だけ、まことにやるせない人生である。九年経過した。宝永八年(1711)になると母はすでにこの世を去ったが、庄左衛門には数年前後妻の女房が出来て、伜伝蔵が生れた。娘おたは十五才になったので、家事の手伝いにも役立ち、家庭内は大分明るくなった。正徳六年になると、次男勘太郎が五才になり、庄左衛門の夢は二人の男の子に託して未来にひろがった。家計は苦しい方だったろう。田畑はなかったしらい。手に余る耕地があれば下男、下女を雇って切抜ける。この例は他の家にある。又、一時他家に貸して耕作を依頼することも出来る。後で見るように、成人の子供達は皆他に出て奉公しているところを見ると、高請地をもたぬ、いわいる水呑の部類であったかもしれない。この年には二十才になった長女おたが奉公に出ている。「勝田村○兵衛方へ相勤候」とあるのがこれである。庄左衛門や女房はどんな仕事から生活の資を得たのだろうか。おそらく農繁期の手伝い、日傭(ひよう)とりのようなことが主であったのではなかろうか。一時好転したかに見えた庄左衛門の家庭であったが、享保十六年(1731)の状況を見ると、まだ何かこの家庭を虐たげる原因の存在が感じられる。それは矢張り貧困とでもいうべきものであろうか。庄左衛門夫婦は六十才前後で世を去った。家庭は姉と弟二人の三人となった。伝蔵は八之助となって村内の吉兵衛方に奉公に出ているし、弟の勘太郎は、円長と号して広正寺の弟子になっている。姉おたは奉公をやめて無人の家を守ることになったのである。四年間このまま推移して享保二十年(1735)もこの状態が続いている。仏弟子である円長が独身であることは別に不思議はない。然し三十九才のおたと三十才の八之助が共に結婚していないことは、何か私たちの心を重くする。この家につきまとう暗い運命からまだ脱却しきれないすがたと映るからである。然し、私たちはこの三人が、貧困に打ちひしがれ、不運におしつぶされて遂に敗惨のどん底に埋没してしまうような気がしない。
 享保の「宗門改帳」はこれを物語る。仏弟子となった弟円長の存在をよく考えよう。江戸時代の僧侶は武士と平民との中間に位する一階級をなしていた。僧侶の中で上級のものは僧正、僧都、上人等の僧官位を授けられ紫衣を許されて、城中に参賀する資格を認められた。下級のものでも公の席では百姓町人より高い座席についた。出家は身分階級の固定した時代に残された唯一つの登竜門でさえあった。円長の将来には僧侶の人生が開けている。明日を信ずることも知らず、未来を期待することも出来ないような人間がどうして志を決して法門に入ることができようか。円長の周辺には身は貧困の家に生れたとはいえ、いや貧困の家に生れたからこそであるかもしれない。――決して単なる「どん百姓」で一生を終りたくないという発奮の精神が感じられる。姉と兄は、この弟の将来に望みをかけ、身を粉にして働いている。婚期を逸して働いている姿はいたましい。然し姉弟三人の歩調は、円長の行く手から揃って響いてくる。これで前述の重苦しい気持もずっと軽減されて気がらくになる。頑張れ!三人姉弟よ。さてその後この円長や庄左衛門一家の消息は不明である。果して姉弟の夢は結ばれたか否か。今のところでは分らない。然しこのような姉弟が生存したということは事実である。これは動かすことの出来ない事実である。そして村の誰かがこれ等の人達とつながっている。自分だとは言いきれない。自分ではないとも断言出来ないのである。これは庄左衛門の家に限らず、前掲の四例について言えることである。
 「宗門改帳」を開いて、そこに記載された人々の名前に対面し、これ等の人々の物語るところに耳を傾けると、まことに興味津々(しんしん)として巻を覆(おお)うことが出来ない。ここに物語する人々は私たちの血縁の人たちである。私たちと同じようにこの田畑を耕やし、この家をたて、この村を作って、苦楽を共にして生きていた人たちである。私たちはこの人達の子孫なのである。六、七代の孫に当るわけである。
 「宗門政帳」から四つの家を選び出して、この家の人達の物語りに耳を傾けたのは、現実に私たちに血を分けた祖先の人達がどのような家庭を作っていたかを知りたいと意図したからである。

『嵐山町誌』(嵐山町発行、1968年8月21日)
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